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流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

妄想物語

信じれば真実、疑えば妄想

時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる

昨日という日は歴史、
今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


Mousou2 日本最大の組織
(山口組)

創設100周年を迎えた
山口組。 
その知名度とは裏腹に
内情はあまり
知られていない。
  
 
その組織はいつどのように誕生し、
過去から現在までどのように膨張し、
巨大化してきたのか・・・
そしてなぜ今衰退傾向にあるのか・・・

今なお日本最大組織であり続ける
山口組とはどういう組織なのか。…


『山口組動乱‼』分裂の真相と山口組の内情(3)

離脱見込みのナンバー3「極心連合会」会長、
一転「残留」意向か


全国最大の指定暴力団山口組(総本部・神戸市灘区)の
ナンバー3にあたる統括委員長で、山口組から
離脱する見込みとなっていた直系団体「極心連合会」
大阪府東大阪市)の姜(きょう)弘文(通称・橋本弘文)会長(68)が、
一転して残留の意向を示したとみられることが4日、
捜査関係者への取材で分かった。 

捜査関係者によると、姜会長は1日、山口組の篠田建市
(通称・司忍)6代目組長らとともに5代目組長の墓参りをした後に
総本部へ戻らず、周囲に組織からの離脱を示唆した。
その後、複数の直系組長が説得。
4日に総本部で開かれた幹部らの会合に姜会長が出席し、
残留の方針が確認されたとみられる。
姜会長は執行部を外れる見通しだが、山口組が離脱騒ぎを
「何もなかった」と対外的に説明しているとの情報もある。

警察当局は、複数の直系組長が離脱し
新組織「神戸山口組」を結成した山口組の分裂騒動が
背景にあるとみて、引き続き情報収集を続ける。

弘道会支配の原点にあるもの』

六代目山口組の分裂騒動とセットで話題に上がる、
現在の弘道会系による山口組内の支配構造。
これについては山口組では三代目組長の
田岡一雄が死去して以降、四代目当時の竹中組、
五代目当時の山健組と当代を輩出した二次団体が、
山口組本家において重きをなし、発言力を増すと同時に
その二次団体も勢力を増した。
当然その傘下団体も勢いづき、同じ山口組内にあっても
他の二次団体系列に対して遠慮のない活動が目に付いた。

現在の六代目体制の以前には、当然五代目体制があった訳で、
その当時の弘道会はどのような境遇にあったのだろう。
それまで二代目山健組々長だった渡辺芳則が、
山一抗争終結と同時に山口組本家の五代目組長に就任すると、
山健組を桑田兼吉に譲って三代目山健組が発足した。
この時渡辺はそれまで自身が率いてきた
二代目山健組から多くの人物を本家直参へと引き上げた。

一見すると山健組の勢力を減少させるかのようにも見えるが、
実際のところ三代目山健組は元一和会の勢力も取り込み
二代目山健組以上にその数を増やした。
そして五代目山口組本家では若頭に宅見組々長の
宅見勝が就いた。
この時、若頭の宅見勝を補佐する若頭補佐には
英五郎、倉本広文、前田和男、司忍、瀧澤孝らが就き、
本家の執行部が形成された。

少し遅れて桑田兼吉も若頭補佐として執行部入りし、
その後山健組出身の中野太郎も執行部入りした。
この時期山健組から直参に直った組織は多数あったが、
それぞれ目立って勢力を伸ばした組織はなかったが、
中野太郎率いる中野会は別格で急激に膨張し、
数の上でも三代目山健組と肩を並べた。

中野会膨張の影には他の系列を処分された者を
自陣に加えるなど、ご法度があったがそんな横暴も黙認された。
当時は中野会なら何でもありといった風潮で、
他の二次団体を破門絶縁になっても中野会で復帰となれば、
他の組織からクレームを出し難い空気があった。
当時の時勢として、単なる直参組長となるよりも
山健組や中野会の幹部クラスでいる方が、
他の系列に引く事無く何かにつけて優位に
事が進められると皆が見ていたし実際にそうだった。

事実山健や中野の看板の下、他の直参相手に
平然とケンカを売り、開き直る者もいた。
弘道会が地盤とする名古屋においても、
山健組や中野会は遠慮がなかった。

当時の弘道会系列の者には、そんな関西系に
煮え湯を飲まされてきた者もいるはずである。
今の弘道会側から見れば自分達が過去に
散々やってきた事ではないかという気持ちがある。
もともとヤクザというのは身贔屓の上に
成り立つ擬制家族である。
非山口組から見れば、山口組は一つの一家であるが、
山口組内においては山健組と弘道会は別の一家で、
また弘道会内においてもそれぞれの一家が
寄り集まって形成されている。

それぞれに組長という家長がいて、自分が仕える家長には
上部組織の中で少しでも上へと登ってもらう事が、
結果的に自分に多大な影響をもたらす。
また押し上げられた家長も、自分を押し上げる
原動力となった若衆を、当然にこれまた引き上げようと考える。

高山清司と井上邦雄は、どちらも司忍が
盃を下ろした若い者である。
しかし司忍が昭和59年に弘道会を旗揚げし、
やがて本家の六代目にまで登り詰める原動力となったのは、
高山清司をはじめとする弘道会の若衆たちである。

具体的には司忍が所属する弘田組が解散し、
弘道会を発足させた時は山口組と一和会に分裂し
大きな抗争となった頃だ。
この抗争で弘道会は多大な戦果を上げたが、
組員の服役や出費に大きな犠牲を払ってきている。
ひらたく言うと司忍とは苦楽を共にして来ている。

五代目時代に弘道会が山健組や中野会の
圧力にさらされている頃、井上邦雄はほとんど服役中だったが、
言うなれば「向こう側」の人間だった。
山口組のトップは本家の直参から選ばれる事が当然とされ、
また今後もそうなるだろう。
ただその都度主流と反主流が生まれ、
そこに摩擦が起きるのは必然となる。
人間の持つ欲望を丸ごと肯定する弱肉強食の
ヤクザ社会では、主流が主流であり続ける事もまた難しい。
この先弘道会が主流であり続ける保証はどこにもない。

Author :溝口敦:賢者の知恵


『ノラ 徳久広司&再会 弦哲也 』〔弾き語り〕




人の為(ため)と書いていつわり(偽)と読むんだねぇ
誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、言えば、……