流れ雲

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妄想劇場・特別編

妄想劇場・特別編

信じれば真実、疑えば妄想……


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ミステリー

 

 

『サンカ』集団

 
 

サンカ (集団名)


サンカは、日本の山地や里周辺部で過去に
見られたとされる不特定の人々を指す言葉である。
その指し示す範囲は広く、回遊職能民であったり
特殊な窃盗団など、時代や立場によって
定義や趣旨も大きく変わり、語義を明確にすることは難しい。

サンカは、様々な漢字が存在する。
山窩」「山家」「三家」「散家」「傘下」
「燦下」(住む家屋を持たず傘や空を屋根とする
屋外に住む存在という意味)などと表記される。
地方によって呼ばれ方も違う。
「ホイト(陪堂)」「カンジン(勧進)」など、
特定の芸能を指す言葉と併用されることも多い。

「サンカ」という言葉は、江戸時代末期(幕末)の
広島を中心とした中国地方の文書にあらわれるのが
最初である、幕末期においては、
サンカの呼称は西日本に限られたとされている。

立場による呼び名の違いもある
行政系的なカテゴリー/住居を定めない浮浪漂泊者、
「サンカ」「山カ」「さんか」等と記述されていた。
警察系的なカテゴリー/例外なく「山窩」とされている。
 独自な犯行手口を用いる犯罪専科の
 単位集団として規定されていた。
民俗・史学系的なカテゴリー/明確に農民型
 「サンカ」としている。
営林系的なカテゴリー/盗伐を防ぐため調査し
 「サンカ」「山窩」と表記、呼称していた。

生業(地域によって異なる)
サンカには大きく3つの職種がある。
ミツクリは箕(み)作りで、竹細工系の仕事。
フキタカは笛作り、琴作り、茶筅(ちゃせん)作りなど、
楽器や芸事の道具製作で他にも
籠(かご)簑(みの)笠(かさ)下駄(げた)
などの細工物を作る。
里におりて食料その他と交換した。
「ポン」と呼ばれるサンカは、川漁、
副業として竹細工などをしていた。
「ミナオシ」、「テンバ」と呼ばれるサンカは、
箕、かたわらささら、箒の製造、行商、修繕を
主な収入源としていたとされる。

山窩物語
もののけ姫」という映画で、宮崎駿
サンカをはじめとする人々を描いたようである。
サンカとタタラ族との深い繋がり、
もののけ姫の名前がサンという事と
アシタカという名から連想される先住民、
彼らがハンセン病患者達を助けたという事実が
それを考えさせるのである。

作家の椋鳩十は、自然に生きる漂泊民として
詩情豊かに描き、自由に生きる人間の原風景を呼び起こした。

五木寛之の作品では、「戒厳令の夜」「風の王国」など
国家の規制を超えて独自の文化をもち、
管理社会の下で閉塞した状況に風穴を開ける
集団として登場している。

中島貞夫監督の映画「瀬降り物語」(85年)では、
山々を流浪する孤独な生活を萩原健一が好演した。

現代の山窩
かつて、山で生活し自分たちの独自の文化と社会を
形成していたサンカが存在したのは確かな事だが、
現在はとなると、「いる」「いない」で意見が別れている。
『サンカと説教強盗』を書いた礫川全次は、
トケコミしきって、消滅したという説だ。
現代日本では山に行ってもセブリをしているサンカはいない。
小説や物語の中でのみ、彼らに会う事が
出来るというところであろう。

山窩料理
東京都下にサンカ料理を出す割烹旅館があった。
今はサンカ料理をやっていないが、
それに近い川魚料理をだす。
米を食わないサンカらしく、米飯がなく、
よもぎソバがメインの料理である。
この店、戦時中、陸軍御用達(ごようたし)の店で
一般人は入れない店だった。
東条英樹が入りびたり、夜の大本営とまで言われた。
サンカ料理と東条英樹、
陸軍とサンカが実はつながっていたのであろうか。

山窩と犯罪
大正15年7月30日、池袋の黒川健三方に
職人風の覆面男が忍び込み、20円を強奪した。
4年にわたって東京を震撼させた説教強盗の登場である。
忍び込んだ家で、縛り上げた家人に
戸締まりをしろとか、防犯上の説教をしたことから、
当時朝日新聞の記者だった三角寛
「説教強盗」と名づけた。
説教強盗は犯行を重ね、その数は
昭和4年には盗みと強姦をあわせて65件に登った。
その鮮やかな手口にキリキリ舞いさせられた捜査陣から
「犯人はサンカ」ではないのかと声があがった。
これを聞きつけた三角寛はサンカに興味を持ち、
サンカの研究を始める。
昭和4年2月24日、説教強盗妻木松吉は
西巣鴨向原の自宅で逮捕された。
捕まる時「おさわがせしてすみません」と言った
妻木はサンカではなかった。
サンカは、明治以降、近代に入ってからも
戸籍を持たずに山で漂泊の生活を続けていた。
そのため、サンカと犯罪を結びつけ、
何かあるとすぐに「犯人はサンカ」ではないかと
憶測した。

三角 寛(みすみ かん)
サンカ研究で博士号をとり、サンカに関する小説を多数書き、
サンカ学の権威とされた。現在も追従する人が
一定数いるというが、
実はその三角の書いたものの大半が大洞だったという
トンでもない話だ。つまりサンカ学は
スタートラインに立ってさえいなかった。
それどころか、先人たちが軽く触れていた時代から
大きく後退させてしまったといえる。

山窩古史古伝
サンカには、独特の文字と神話伝承がある。
日本書紀』『古事記』に書かれた以外の歴史を伝える
幾つかの古文書を一般に古史古伝というが、
その中の、江戸時代に大分で発見された
『上記』(ウテツフミ)はサンカ文字と同じ文字で書かれている。
また、日本神話である『日本書紀』も『古事記』も、
サンカ言葉で読むとまったく違ったものになるという。
サンカの道具であり武器であるウメガイという
両刃のサンカ刀があるが、このウメガイこそが
スサノオノミコオがヤマタノオロチを退治した刀だというのだ。

山窩と戸籍
670年の「庚午(こうご)年籍」に始まる戸籍は、
国家統治の基礎であった。
しかし、明治に入っても戸籍への編入を拒絶し、
国民の三大義務である徴兵、納税、義務教育を
無視してきたのがサンカであった。

日清戦争後にも20数万人、
第2次世界大戦後の昭和24年にも、
約1万4000人の無国籍サンカがいた。
その当時サンカ以外の流浪人を合わせると
80数万人の戸籍を持たない人達がいたという。
昭和27年朝鮮戦争を契機に
国家再編成を実現する目的で施行された
「住民登録令」によって、日本列島に住む人々は全て、
居住地を決め、その住所を申請すると同時に、
米穀通帳、国民年金、健康保険、選挙人名簿などを
一括登録する事を義務化した。
後に「住民基本台帳法」として完成するこの政令によって
サンカの歴史は幕を下ろすことになる。


《終わり》


人の為(ため)と書いて
いつわり(偽)と読むんだねぇ


誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば愚痴と、言い訳になるから……


【巷の噂話】芸能人が隠したい黒歴史



時は絶えず流れ、
今、微笑む花も、明日には枯れる





P R

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