流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない



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子を持つも持たぬも人の宿命(さだめ)なり 
日に日に努めて行かむ
あなたの人生なんだから好きなように
お行きなさい(生きなさい)



「幸せとは何かを思うとき」

一人で食べる食事は寂しいものです。
「おいしいね」 「うん、おいしいね」
そういう、当たり前の会話の中に、
「幸せ」はあるのではないでしょうか。

私と淳子は、結婚して社宅で暮らし始めます。
台所には、四人がやっと座れる
小さなテーブルを置きました。
テーブルには、ピカピカの二枚のお皿が並びます。
新しい生活が始まることを感じました。

ある日、いつも通りに夕食をしていると、
はにかみながら淳子が言います。
「赤ちゃんができたから…」と。
「そうか」としか、言葉が出てきません。
次の言葉も「そうか、そうか」です。
淳子は、うんとうなづき、
「私、お母さんになるんだ」と、涙を流します。
女性が母になるとはこういうことなんだ、
そう思ったことを覚えています。

無事、景子が産まれました。
生後百日目に、
お食い初め(おくいぞめ)をします。
子どもが、一生食べ物に困らないように願い、
赤ちゃんに食べ物を食べさせる儀式です。
ただ口にするといっても、食べる
真似をするだけです。

まず、ご飯を食べさせます。
景子は、少しなめると苦そうな表情で、
直ぐに大声で泣き出します。
その様子に、私も淳子も大笑いです。
テーブルの上には、私と淳子、そして景子のお皿。
三枚のお皿が初めて並んでいます。
家族が増えた、そのことを思いました。

そして、康平が産まれて、食卓のテーブルには
四枚のお皿が並びます。
家族のイベントがあると、お皿には
いろいろなものが盛られます。
誕生日にはバースデーケーキ、
お雛様やこどもの日にはお祝いのもの、
お月見にはお団子、クリスマスはケーキ…。
みんな、とっても素敵な笑顔です。

数年後、景子が亡くなります。
闘病中は、家族が離れ離れになっていました。
家族全員が揃って、久しぶりの朝食です。
食卓のテーブルには、三枚のお皿が並びます。
景子のお皿は、遺影の前におかれています。
景子は、もういない…。
その現実を知らされます。
言葉にならない悲しさです。ただ無言で食べました。

景子の誕生日。
淳子は、バースデーケーキを買ってきました。
景子が大好きだったいちごのケーキです。
チョコレートには、「景子ちゃん 
お誕生日おめでとう」とデコレーションされています。
みんなでハッピーバースデーを歌いました。
景子ちゃんも一緒、そんな気がします。
今もお祝いをしています。

康平が下宿をすると、テーブルのお皿は
二枚になりました。
家の中は、大きな穴がぽっかり空いたような
気持ちです。
寂しいねと、どちらともなく言葉を交わしました。
康平は、めったに家に帰ってきません。
でも、たまに帰省して三人分のお皿になると、
家全体が明るくなります。

家族が一緒にいる、小さな幸せを感じるのです。
本当に不思議なことです。
四枚から三枚になったときは、
人生の不幸を感じました。
でも、二枚から三枚になると、
幸せを感じるのです。お皿は同じ枚数なのに。

テーブルのお皿に盛られていたのは、
「私の心」でした。
そして、悲しい、辛い、寂しいことがあるからこそ、
幸せも感じられる。そう思うのです。

Author:鈴木中人

鈴木さんは、お嬢さんを6歳のときに、
がんで亡くされました。


マザー・テレサ 愛の花束』

大きな愛をもって愛するということは、
どういうことでしょうか。
難し過ぎると思われる方もいるかもしれませんね。
しかしマザー・テレサは、それを
カルカッタに住む四歳の子どもから
教えてもらったと言います。

まだ、マザー・テレサの活動が今ほど
人々に知られていなかった頃の話ですが、
一時期、マザー・テレサのところに
砂糖がまったく入らなくなったことがありました。
そのため、毎日お世話をしている
何千人もの孤児、病人、貧しい人たちにも
砂糖を分け与えることができませんでした。

その四歳の子どもは、学校で先生から
話を聞くと両親に言いました
。「ぼくは、今日から三日間砂糖を食べないよ。  
ぼくの分をマザー・テレサにあげるんだ」

子どもの両親はそれまでマザーのところへ
行ったことはなかったのですが、子どもにせがまれ、
三日後に子どもを連れて訪ねて行きます。
その子は、マザー・テレサの名前を
正しく発音できないくらい幼く小さい子どもでした。
しかし、手にしっかりと砂糖の入った
小さなビンを握りしめていたのです。
そして、おずおずとそのビンを
マザー・テレサに差し出しました。

それは、男の子がマザー・テレサ
貧しい人たちを助けるために、
三日間自分を犠牲にしてためたものだったのです。
マザー・テレサは、この話を
世界中至るところでしました。
もちろん、日本でもしました。
彼女は次のように語ったものです。

「その小さな子どもがくれたものは、  
それを私たちが貧しい人々に分け与える時に、  
計り知れないくらい大きなものとなって、  
彼らの手に渡ることでしょう。
私は、その子どもから本当に大切なことを学びました。
この幼い子どもは大きな愛で愛したのです。  

なぜなら、自分が傷つくまで愛したからです。  
この子どもは私にどのように愛するかも
教えてくれました。  
大切なことは、いくら与えたかではなく、  
与えることにどれだけの愛を注いだかであると」

さらに言いました。「あなたもそれを実行してください。  
年老いた両親のために一輪の花を持っていったり、  
ふとんを整えてあげたり、
仕事から戻ってきた夫を  
微笑んで迎えてあげるだけでいいのです。  
学校から帰ってきた子を迎えてやり、  
声をかけてあげてください。  
今、こういったふれあいが失われてきています。  
忙しすぎてほほえむ暇も、愛を与えたり、  
受けとめたりする暇もない、
そういう生活になっていませんか」…

Author:中井俊已

『父よ』

私の父は、78歳で他界しました。
気が弱く、酒の力を借りないと何も
言えない男でした。
酒とギャンブルに溺れて、いつも母に
暴力をふるっていました。
私は子供の頃からそんな父が大嫌いでした。

父は腕のいい板前でしたが、
一か所に落ち着かず
全国の旅館や料亭を転々としていました。
そんな暮らしを送っている時、叔父が、
「いつまでもそんな生活をしていたら、
妻や子供が、かわいそうだ」と言い、
板前を辞めさせて地方公務員の
職を見つけてくれました。

公務員といっても、仕事は養護施設孤児院の
給食係でした。
板前職人の父にとっては屈辱だったのでしょう。
そのころから酒とギャンブルに溺れるように
なったのです。

休日は朝から浴びるように酒を飲み、
仕事の愚痴を溢してばかりいました。
私が小学生から社会人になる頃まで
そんな生活が続き、 案の定、
肝臓を悪くして入退院を繰り返して
78歳で他界しました。

私は、父の葬儀で涙を流しませんでした。
葬儀の終わり頃になって、
30歳代ぐらいの男女12~13人が
泣きながら焼香をしているのに気づきました。
初めてお会いする人たちなので、
父との関係が全く解りません。
どうしても気になって仕方なかったので、
出棺のときに、リーダーらしき青年に
父との関係を聞きにいきました。

すると、青年はゆっくり語ってくれました。
彼らは父が勤めていた孤児院で
育った仲間だったのです。
「食べるものや着るものは、全国の人たちから
いただいたので何の不自由もありませんでした。  
一つだけ辛かったのは、学校に
お弁当を持っていく時でした。
いつも友達から離れたところで食べました。  
私たちのお弁当は、パンとミルクに
決まっていたからです。

友達はみんな、母親の手づくり弁当を
楽しそうに食べていました。  
だから、私たちはお弁当の日が
一番悲しい日でした。

梶山のおじさんが来てくれてから、
お弁当が変わりました。  
どこの母親にも負けないぐらい
綺麗で美味しい手づくり弁当を
持たせてくれました。
その日から遠足やお弁当の日が
待ち遠しくなり、友達に自慢げに見せながら、
梶山のおじさんのお弁当をいただきました。  

あの時のお弁当の味を、20年経った今も
忘れることはありません」

その話を聞いたとたん、 涙か溢れて
止まらなくなりました。
あんなに大嫌いだった父親の姿がさっと消えて、
小さい頃に一緒に遊んでくれた、
笑っている父が走馬灯のように
浮かんできました。
それまで知らなかった父を知った喜びと、
父を嫌って殆ど話さなかったことが
無性に悔しく、
大粒の涙になって溢れ出しました。

Author:kinji様



『亡くなった娘からLINE,、たった70文字の言葉とは…』





時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる


添うて苦労は覚悟だけれど、
  添わぬ先から、この苦労