流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

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『お母さんに会いたい』

私の父は私が5歳のときに白血病で亡くなりました。
それからは母が働き、祖母が私と弟の面倒を
みるようになりました。
母は、仕事を始めてからは料理はしないし、
洗濯もしないので、家事は全て祖母がやっていました。
だから私は母親の手料理の味を覚えていません。
母はそういう面では母親らしい人ではありませんでした。

でも私はそんな母が大好きでした。
身だしなみにすごく気を使っていたので
友達のお母さんよりも綺麗でした。
音楽やファッションもわりと若々しく、友達のような感じでした。

そんな母が、乳癌だとわかったのは
私が小学校6年生の時でした。
そのときは本当に驚いたのですが、
手術をすれば大丈夫だと思っていたので
お母さんはすぐに元気になるんだ、と思っていました。
そのとおり、摘出手術をしてからは仕事にも無事復帰。
通院は続いていましたが、私は大丈夫を信じていました。

私が中学1年生の夏ごろ、癌細胞が肝臓に
転移しているのがわかりました。
私は癌に全然詳しくなかったので、また手術すれば
すぐに治る、と思っていました。
しかし、容態は良くなる気配を見せず、
母は見る見るうちに衰えていきました。
仕事も辞め、家と病院を行き来する毎日が続きます。
抗がん剤の作用で髪が抜け落ちたり、
吐き気がひどかったりすることもありました。

そして私が中学二年生の夏ごろから入院生活になりました。
それでも心のどこかでわたしのお母さんが死ぬわけない、と
思っていました。
最初の頃はたくさんお見舞いも行きましたが、
だんだんその回数も減っていきました。
冬のはじめのある日、母から電話がきました。

「ちゃんとおばあちゃんの言うこときいてね。
お手伝いもちゃんとしなきゃだめだよ」
すごく疲れた声でした。
それから一週間後の早朝に、母は亡くなりました。
母が亡くなる前日の夜、なぜか私はすごく不安になり、
しばらく眠れなかったのを覚えています。
祖母から電話がきて、早く弟と一緒にタクシーで来てといわれ、
弟とタクシーで病院へ向かいました。
そのときは全く実感がわかなく、そして弟を
不安にさせちゃいけないと思い、すごく冷静だったと思います。

母の病室のある階につき、祖母の震えた声で
私たちを呼ぶ声が聞こえた瞬間、糸が切れたように
涙がでてきました。
あぁ、本当にお母さんは死んでしまったんだ、と。

亡くなる直前の母は、モルヒネによる副作用で、
幻覚がみえたりしてとてもやつれていたそうです。
だから本当はあまり私や弟にお見舞いに
きてほしくなかったそうです。
髪の毛がないこともたぶんとても気にしていたと思います。
最期の最期まで、母は私の母らしい人でした。

祖母から聞いた話ですが、母は亡くなる前、
弟が高校卒業するぐらいまでは生きたいな、と
言っていたそうです。
その話を聞いて、また涙がでました。

お母さんに会いたいです。会ってたくさん話したいです。
学校のこと、部活のこと、音楽のこと、
たくさんたくさんきいて欲しいです。
以前より成長した今の私なら、お母さんと
たくさん語れる気がするよ。

これからはおばあちゃんの手伝いをしたりして、
お母さんに心配かけないようにするね。
今でもたまにお母さんの夢をみて
泣いてしまうことはあるけど、私は大丈夫です。
また夢で会うときは、たくさんわたしの話聞いてね。
おもしろい話たくさん用意しておくね。



子を持つも持たぬも人の宿命(さだめ)なり 
日に日に努めて行かむ
あなたの人生なんだから好きなように
お行きなさい(生きなさい)



【報道されない真実】12年間繁殖だけを強いられた犬



『父に会いたい』


自分は父の顔を知らない。
自分が2歳の頃、交通事故で死んだそうだ。
母に「お父さんの名前、なんて―の?」とか
「お父さんの写真、見して!」とか
「お父さん、メガネかけてたの?」とか聞いても、
黙って首を振るだけだった。

父がいない分、母は毎日朝早くから遅くまで仕事をしていた。
酷いときには、1週間母を見ない日だってあったのだ。
そんな時、面倒を見てくれたのが祖父母。
誕生日もクリスマスも、祖父母と一緒。
母とは土日に外出するくらいで、正直
何を話したら良いのか全然わからなかった。

小学校のときは
「お母さんはカッコよくて、頭が良くて、
仕事もすごい出来るんだ」と、よく自慢していた。
でも、本当はそんな自慢なんていらなかった。
母とちゃんと話がしてみたかった。

そんな時、いつも思うのが死んだ父。
父がいたら、母とも毎日話せた。
父がいたら、母がこんなに仕事をすることもなかった。
父がいたら、父がいたら、父がいたら…
そんな思いがひたすら溢れた。
祖父母は大好きだ。文字の書き方から
きゅうりの切り方まで全部教えてくれた。
それでも、やっぱり…
母は父のことを教えてくれないだろう。絶対に。

そんな小学生時代に終止符を打つように、
母の再婚が持ち上がった。
小学校の卒業と同時に、県外に引っ越し、
新しい父と母との3人で暮らすということだった。
実際、自分は本気で祖父母の所に残ることを考えた。
小学校の友達と離れるのは辛い。でも、
それ以上に祖父母と離れるのが嫌だった。
それでも、母の涙に折れて引っ越すことになった。
その時はまだ知らなかった。
母のお腹には新しい父との子供がいた。…

新しい父は妹が産まれるまでは優しかった。
しかし、妹が産まれた途端、がらりと変わってしまった。
理不尽な怒り方ばかりしかしない。
母の前では優しいのだ。なのに、母がいないと口調も変わる。
それは2年経った今でもちっとも変わらない。
どうしようもなく、辛くなっても話せる人がいなかった。

先週、祖父母を訪ねたときに今まで教えてくれなかった
父の話を聞いた。全てを話すからと、
祖父母はこっちに引っ越して来いと言ってくれた。
でも、それは出来ない。
母にもその事実を話さなくてはいけない。母はきっと悲しむ。
今まで、母親らしいことをしてくれなかった母でも、
母が悲しむのは見たくない。

そして今日。
祖父母から父の命日だと聞いていた日。
学校を休んで亡き父に会いに行きました。
父の墓は綺麗に掃除されていて、花も供えてありました。

「お父さん、自分はもうすぐ高校受験です。
今まで会いに来れなくてごめんなさい。
お父さんの顔は分からないけど、辛い時にはここに来ます。」
本当に父に会いたいと思った。


Author:名無しさん



 檻の中で抱き合う「2匹の犬」



人の為(ため)と書いて
いつわり(偽)と読むんだねぇ

誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば、愚痴になるから……



時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる