流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

妄想劇場・特別編

妄想劇場・特別編

信じれば真実、疑えば妄想……

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歴史、
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ミステリー

 
 
 

 
誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば愚痴と、言い訳になるから……


一目惚れしたのは、私が先よ、
手を出ししたのは、あなたが先よ


『天才・羽生結弦-1

天才・羽生結弦を育てた「羽生家の家訓」 
決して表に出ない両親、祖母、叔母、
個人トレーナーが明かした新事実

羽生結弦はなぜ、あれほど心が強いのか。
彼のスケートを見た人が抱く疑問だ。
普段は少年のようにあどけないのに、競技中の
眼差しには炎が宿る。
天才スケーターを育んだ両親の実像に、迫る。

 

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 『控え目で謙虚な両親

連覇を達成したグランプリファイナル終了後の
記者会見で、羽生結弦(20歳)にこんな質問が飛んだ。
「わが子を羽生選手のように育てたいという
お母さんが多いのですが、どうしたら羽生選手のように
育つと思いますか」

羽生は少し困ったような表情で考えを巡らせてから、
こう答えた。
「僕は『僕』です。人間は一人として同じ人はいない、
十人十色です。
僕にも悪いところはたくさんあります。でも悪いところだけじゃなくて、
いいところを見つめていただければ、(子供は)喜んで
もっと成長できるんじゃないかと思います」

逆境に立ち向かう強い精神力、誰に対しても礼儀正しい振る舞い
羽生結弦を見た時、世の母親たちが「子供にあんなふうに
育ってほしい」と思う気持ちはよくわかる。

ただ、そこでハタと気づくことがある。
羽生の両親とは一体どんな人物なのか—。
その質問に答えられる人は少ない。なぜなら羽生の両親はこれまで、
インタビューに応じたこともなければ、表舞台に登場したことも
一度もないからだ。

『結弦の両親が表に出ないのは』

頑張っているのは本人であって、親は関係ないという
考えからなんです。
五輪で金メダルを獲得しても
『私たちがしゃしゃり出て話すことはない』と言っていました。
控え目で多くを語らない、お二人とも、まさに東北人の
気質を持った両親です。
羽生家に近い友人はそう説明する。

息子が謙虚なら、親もまた謙虚。
一体、羽生家ではどんな教育が行われ、
天才・羽生結弦が育まれたのか。
羽生が生まれ育ったのは仙台市泉区
両親と姉の4人家族で、父は中学校の教頭として勤め、
母は専業主婦、
4歳上の姉は、羽生のホームリンクだったアイスリンク仙台の
職員として働いている。

羽生が生まれ育った県営住宅は、
仙台駅から車で20分ほどのところにあった。
「フィギュアは、靴や衣装、リンク代など、ものすごく
おカネがかかるスポーツです。家族の協力なしにはできません。
羽生家は父親が公務員で貧しくはないけど、
カネ持ちというわけでもない。
家賃5万円でつつましく暮らしていました。節約のために、
つい3年前まで結弦の衣装はお母さんが作っていたんです。

両親に会いたくて、羽生家の表札を探したが、見つからない。
近隣住民がこう教えてくれた
「金メダル獲得後、自宅に取材が殺到したでしょ。だから
昨年の10月頃、羽生さんちは仙台市内のマンションに
引っ越したのよ」

やむをえず、仙台市内に住む母方の祖父母の
自宅を訪ねてみた。
取材で来た旨を告げると、祖母はインターフォン越しに、
「東京からせっかく来ていただいて申し訳ないのですが、
孫についてお話しすることはできません」と、申し訳なさそうに言う。
だが、少しだけでもとお願いすると、ポツリポツリと答えてくれた。

—羽生選手の人間性はご両親をはじめ、周囲の方の
教育の賜物だと思います。

いいえ、あの子の両親は当たり前のことを
してきただけです。特別なことは何もしていません。

羽生家には「家訓」のようなものはあるんでしょうか。

ゆづを育てたのは、両親ですから、私たちは話す立場にありません。
私たち祖父母がいろいろと話したような記事が出てしまったら、
恥ずかしくて生きていけませんよ。

有名になってもご両親をはじめ、皆さん、表に出てきません。
それが羽生家の方針ですか?

頑張っているのはゆづ本人ですから。

ご両親の、しっかりした教育あっての羽生選手だと思います。

それはウチの娘ではなく、教員をされているお父さんが
立派だったんだと思います。私たちは普通の人間ですから。


「嫌なら辞めればいい」

小さいころの羽生は、野球をやっていた父の影響から、
ボール遊びが大好きな少年だった。
端麗な容姿から女の子に間違えられることもあったが、
周囲からは明るくわんぱくに見えていた羽生少年。
だが実は、他の子供に比べて、
生まれつき大きなハンデを背負っていた。

「喘息」である。
喘息持ちだった羽生は、少し走ると急に咳き込んだり、
夜も眠れないほど咳が続く日もあったという。
羽生がスケートと出会ったのは4歳の頃。スケート教室に通っていた
姉の練習についていったのがきっかけだったが、目的は
喘息を克服することにあった。

「お母さんは結弦の喘息を心配し、なんとか治してやりたいと考えていた。
ホコリを吸い込む可能性の少ない屋内でのスケートは、
結弦にピッタリのスポーツでした」

幼少期から羽生を指導し、現在は神奈川スケートリンク
専属インストラクターを務める都築章一郎氏は、その頃のことを
次のように語る。
「元々は喘息を治すことが目的だったようですが、
結弦は体幹がしっかりした子で、『才能の片鱗』が見えました。
何度転んでも起き上がってきて、当時から芯の強さや、
負けず嫌いなところはありましたね。

『お姉ちゃんができるなら僕にだってできる』と言って、
果敢にジャンプやスピンに挑戦していました。
その頃からうまくいけば世界に通用する選手になると思っていました」

スケート靴を初めてはいた瞬間から、光っていた才能。
だが、ここから順風満帆なスケート人生が始まったのかと言えば、
そうではない。
そのエピソードを明かすのは、羽生の父親の妹で、
現在は保育士を務める叔母である。

「兄(羽生の父親)はずっと野球が好きで、
野球部の顧問も務めていました。だから、本当は
ゆづに野球をやらせたかったんです。小学校3~4年生の頃、
スケートの練習が少し嫌になっていたゆづに、兄(羽生の父親)は
こう言ったそうです。

『野球のほうがおカネもかからないし、スケートが嫌なら
辞めてもいいんだぞ』と」
喘息の症状が改善に向かっていたこともあったのだろう、
父の提案は羽生を悩ませた。そして、悩んだ末に
羽生が自分の意志で出した答えが
「スケートを続ける」だった。…


次回に続く

Author :「週刊現代


けい子(増位山太志郎)




君は吉野の千本桜、色香よけれど、
気(木)が多い



時は絶えず流れ、
今、微笑む花も、明日には枯れる