流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

妄想物語

時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる


昨日という日は歴史、
今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー 

 

Mousou2


日本最大の組織
(山口組)

 
 
 
創設100周年を迎えた山口組。
その公に対する知名度とは裏腹に
内情はあまり知られていない。
その組織はいつどのように誕生し、
過去から現在までどのように膨張し、
巨大化してきたのか・・・
そしてなぜ今衰退傾向にあるのか・・・

今なお日本最大組織であり続ける
山口組とはどういう組織なのか。

当記事は、
殺人や犯罪を助長する訳ではありません、
話題がヤクザの事なので、
当たり前のように書いています。 

四代目 竹中正久 (1984年)~(1985年)
襲名から202日で分裂した一和会の凶弾に倒れた
悲運の極道。

昭和(1933年)、八男五女の七番目、三男として
兵庫県飾磨郡御国野村(現在の姫路市)に生まれる。
長男と次男は堅気。七男は産まれてすぐに亡くなった。
三男・正久以下の男兄弟、四男・英男 五男・正 六男・修
八男・武までの全員が後に極道となる。

祖父が助役、実父が村議会議員を務めた事もある
良家だった。

昭和(1946年)、実父の龍次が死去。
難関の旧制姫路市立鷺城中学校に通っていた正久は
中退した。
昭和(1948年)、次男・良男が死去。
昭和(1951年)、17歳の時、鑑別所を経て
奈良特別少年院に送られる。
この時期三代目山口組宇野組組長・宇野加次の息子
宇野正三と出会い兄弟分の約束を交わす。
これが後に正久が山口組に入るきっかけとなる。
昭和35年、地元の不良を糾合し竹中組を結成。

山口組への加入

少年院で知り合った兄弟分の宇野正三の父、
三代目山口組の宇野組組長・宇野加次が
正久の山口組入りを三代目山口組の
若頭・地道行雄に推薦した。
地道が親分の田岡一雄に正久を推挙。
(1961年)12月13日、田岡から盃を受け
三代目山口組の直参となった。
この時正久は28歳。当時の山口組本家の
月会費は二千円だった。

山口組執行部へ

同年、山本の若頭就任に伴い37歳で若頭補佐に就任する。
この当時の山口組本家の月会費は5万円だった。
昭和47年(1972年)、貝崎事件が起こる。
竹中組が山口組に加入して初めての殺人事件だったが、
実は前年ひそかに白龍会組員を殺害し仁寿山に埋めるという
事件が起きていた。
(1973年)、前年行われた総長賭博にからんで山口組、
稲川会の大物幹部が多数逮捕されるが、
事前に正久の発案でその日付を最後まで
伏せておくよう根回しされていた。
その甲斐あって兵庫県警は賭博開帳日を特定できず、
全員が無罪放免となり罪に問われる事はなかった。

(1975年)7月、ジュテーム事件。
大阪府豊中市で山口組系佐々木組傘下の3人が
松田組系溝口組傘下組員らに射殺される。
いわゆる大阪戦争の勃発。
(1976年)、日本橋事件。
山口組系佐々木組傘下組員が松田組系村田組内
大日本正義団会長吉田芳弘を射殺
(1978年)2月、凶器準備集合罪の上告を最高裁が棄却
懲役2年の実刑判決が確定し、神戸刑務所に服役。

同年7月、ベラミ事件。
この時正久は服役中だった。
同年年11月、山口組側から「抗争終結」を宣言。
(1979年)、正久の服役中に長兄の龍馬が死去。
後半に八男・修も死去しているのでこれで
竹中兄弟は三男・正久、五男・正、八男・武の三人となる。

(1981年)7月、三代目山口組組長田岡一雄組長死去。
(1982年)2月、三代目山口組若頭山本健一死去。
同年3月、脱税容疑で竹中組や関係先約30ヶ所の
家宅捜索を受ける。
若頭補佐の山本広が組長代行に就任。
田岡未亡人の推薦により正久が若頭に就任。
当初正久は弟の武の助言もあってこれを断り、
代わりに高知の中山勝正を推薦している。
しかし田岡フミ子に押し切られる形で
結局は若頭を引き受ける事になる。
同年8月、正久は脱税容疑で逮捕される。
同年9月5日、定例会で組長代行の山本広が
「四代目をやるよう推された」と宣言し
一部の者から猛反対を受ける。
昭和58年(1983年)6月、正久が保釈出所。

山口組四代目襲名

(1984年)6月5日、直系組長会に田岡フミ子が出席し、
竹中正久を四代目に指名。
正久の四代目に反対する者達が山口組を脱退し、
山本広を会長に一和会を結成。

同年8月、執行部の強い意向で四代目山口組から
「義絶状」が全国の友誼団体に送られる。
勢力数こそ当初は一和会が山口組を
上回っていたが、その数は徐々に逆転していった。

一和会側は密かに竹中暗殺を計画し、
同年9月には暗殺部隊を結成。
昭和60年(1985年)1月9日、5年前の賭博の事件で
上告が棄却され懲役5ヶ月が確定した。
未決拘留日数を差し引かれ実際は50日程の服役になる。
確定後には出頭して服役しなければならないが、
これを引き延ばし2月に入ってから
服役するはずだった・・・

最後の日

(1985年)1月26日、この日正久は午前中神戸の
山口組本部に隣接する新本家上棟式の後、午後には
京都府八幡市に入院する田岡フミ子を見舞った。
夕方大阪ミナミで食事をしたあと若頭の中山が他の者達を
帰らせた。この時点で正久に付いていたのは、
若頭の中山勝正と南力、そして運転手の南組組員のみになる。
しかしこの時点では過剰な警護を嫌う正久に気付かれぬよう
中山の豪友会の組員が数名離れてガードをしていた。
その後一行は堂島のクラブへ繰り出した。

午後9時前 堂島のクラブを出て一行は
南組の車に乗り込んだ。
助手席には南、後部座席には正久と中山が乗り込んだ。
行き先は吹田市江坂。江坂には正久の愛人が
住むマンションがあった。部屋はマンションの5階・・・

そして同じマンションの2階には一和会のヒットマンたちの
アジトがあった。
正久にとってこの世で一番危険な場所となっていた。
マンションに到着すると南は運転手の松崎に
しばらく待機するよう言いおき、正久、中山、南の三人が
エントランスを抜けエレベーターホールへと消えていった。

松崎が車をバックさせていると、立て続けに銃声が鳴り
続けざまに青白い閃光が走った。
エントランスから正久がよろけながら出て来て
車と反対側へと逃れるのが見えた。
それを追うように男が二人マンションから飛び出してくる。
男は車に気付き拳銃を構えた。

アクセルを踏み込み男をはね飛ばし、正久の後を追い
真横につけ抱かかえるように車に乗せた。
正久は気丈にも「大丈夫や」と言った。
松崎は南組事務所に自動車電話
危急を知らせ救急車の手配を頼んだ。
「親分どこをやられました?」
「胸と腹や」
はっきりとした口調だった。

南組事務所に到着し救急車に乗せられた。
正久は横たわったまま、自分で腕時計をはずして
付き添った組員に預けた。
救急車が走り出したその時、正久は「体を起こせ」と
つぶやくように言った。
これが正久の最期の言葉となった。
狙撃されてから26時間後、
昭和60年(1985年)1月27日午後11時25分 
死亡が確認された。

『山口組四代目決定までの裏話 』

『山口組四代目決定までの裏話 』
 
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人の為(ため)と書いて
いつわり(偽)と読むんだねぇ

誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば、言い訳になるから……