流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

妄想物語

時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる

昨日という日は歴史、
今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー



Mousou2


日本最大の組織
(山口組)

 
 
 
創設100周年を迎えた山口組。
その公に対する知名度とは裏腹に
内情はあまり知られていない。
その組織はいつどのように誕生し、
過去から現在までどのように膨張し、
巨大化してきたのか・・・
そしてなぜ今衰退傾向にあるのか・・・

戦後の高度成長期の日本において、
度重なる抗争事件を繰り返しながら全国進出し、
現在の暴排条例という向かい風の中、
今なお日本最大組織であり続ける
山口組とはどういう組織なのか。

過去の、ターニングポイントとなった出来事、
ヤクザ史に残る抗争事件、
組織にとって重要な局面、
伝説に残る人物の所作、内紛、
山口組を去る事になった人物など、…
山口組についての事象を各年代を追いながら
紹介していきます。

当記事は、
殺人や犯罪を助長する訳ではありません、
取り上げている話題がヤクザの事なので、
当たり前のように書いています。 


2daime


二代目 山口登 
大正14年(1925年)~昭和17年(1942年)
実父から引き継いだ山口組を、
興行面で磐石なものにした人物


明治35年(1902年)山口組初代組長山口春吉の
長男として生まれる。
大正14年(1925年)、23歳で二代目組長を継承。
新しく山口登の若衆となった者は、34人だった。
この時、山口組は 大島組・大島秀吉組長の
系列組織だった。その後は新進気鋭の
若親分としてその名を響かせる。

二代目襲名後、山口組組員と大島組組員の
喧嘩が多発した。
山口登は、大島組組員との喧嘩を
諌めることはしなかった。
昭和2年(1927年)1月、大島秀吉宅に
新年の挨拶に行った時、
大島秀吉は、山口登に山口組組員と
大島組組員の喧嘩が多発していることを咎めた。
山口登が形ばかりの詫びを入れたところ、
川端勝次が山口登に本心での詫びかを詰問し、
山口登もこれには激怒した。
後の本多会々長・本多仁介が、
川端勝次と山口登をなだめた。

大島組との決別
昭和4年(1929年)1月、
山口登は大島組への上納金を止めた事で、
大島組を破門になる。
これ以降、山口組は独立組織として
歩んでいく事になる。
昭和5年(1930年)3月、
兵庫区浜新町の神戸中央卸売市場
建設を計画を巡り、大島組と激しく対立した。
これを原因に神戸市新開地で、
山口組の若衆が以前から
山口登と因縁のあった川端勝次を射殺した。

またこの年には、山口組事務所を兵庫区西出町から
同区切戸町に移した。
ここは大島組の縄張りで、
神戸市中央卸売市場建設予定地のすぐ近くだった。

8月には、神戸中央卸売市場の杭打ちが始まり、
山口組組員は武器を持参して、工事現場に寝泊りした。
同年10月、二代目山口組のゴンゾウ部屋で
世話になっていた後に三代目組長となる田岡一雄が、
新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、
小屋主の態度に腹を立て、
湊座の舞台に上がって大暴れした。
山口組が湊座の用心棒を務めていた事から
これが縁になり、田岡一雄は二代目山口組で
行儀見習いをすることになった。

昭和7年(1932年)、
大島組の刺客・守屋謙造に襲撃された。
山口登の若衆・村上常吉が1ヶ月の重傷を負ったが、
山口登は無事だった。
この頃から、山口登は新しい資金源として、
浪曲興行に本格的に進出した。
また、神戸中央卸売市場の開業に伴い、山口組は
中央卸売市場に賭場を開いた。
昭和11年(1936年)1月20日、
山口登は正式に田岡一雄を若衆とした。

吉本興業との提携
同年9月、山口登は、法善寺横町近くの料亭で、
吉本興業社長の吉本せいと会い、吉本興業への
協力を依頼される。
同年10月、吉本せいから浪曲師・広沢虎造
吉本興業の専属にしたいという相談を受け、
広沢の吉本興業専属の話を
山口登が取りまとめた。
その後山口登はボクシングのタイトルマッチを
国技館で行うなど興行面でも
山口組の名を売っていく事となる。

昭和15年(1940年)、吉本興業
広沢虎造をめぐり籠寅組とトラブルになり、
東京の浅草で話し合いの場を持った。
ところが話し合いはこじれ、ボディーガードの
中島武雄は日本刀で刺殺され、
山口登も全身に18ヶ所の傷を受けた。
しかし、一命は取り留めた。

昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、
この傷がもとで死亡したとされている。
享年、41。



映画 「さらば愛しのやくざ」 予告編
安楽隆雄の1988年の小説、それを原作として
1990年11月23日に東映から公開された
ニューウェーブヤクザ映画といわれ
今作もその流れを汲んだ作品として知られる。




盃と組織構成
ヤクザの組織構成は、盃
盃関係があると言うことは正式なヤクザとして、
本人の所属を明確にし、どこの系列下にあるか、
または誰の支配下にあるか重要な意味を持つ。
盃のあるなしが堅気とヤクザの境目となる。
そしてその所属する組内における本人の役も
また重要な意味を持つ。
組という組織構成は、
組長を頂点に舎弟や若中といった
何らかの盃関係を持ち、組(一家)と言う
三角形が出来上がります。
そしてこの組単体が山口組と言う
巨大ピラミッドの一コマに組み込まれます。
組長の妻や先輩格に当たる人物の妻は、
「ネェーサン」と呼び、愛人なども
地名を入れて「◎◎のネェーサン」などと呼ばれます。

役職
「山口組のナンバーツーを逮捕」などの表現で
報道されますが、山口組本家では
ナンバー何位まであるのでしょうか?
一般的にヤクザは序列にこだわりますが、
通常どのように序列が決まっているのでしょうか。
一般的な山口組系の組織での役付けについて
いわゆる肩書きについての解説です。

執行部
関西の慣わしとして組織の中心にまず
「若頭」という役があります。
若頭は若中の中から選ばれトップに位置し、
若衆の代表です。
若頭には親分の跡取りという意味合いもあります。
そういう事からナンバーツーと表現されているようです。
そしてその若頭を補佐する役が若頭補佐です。
次期若頭も若頭補佐の中から選ばれる事が多いです。

若頭の次に位置するのが「本部長」です。
本部長は通常、若頭補佐よりも上に位置し、
何らかの理由で若頭のポストが空いた場合、
本部長から若頭に昇格する事もあります。
また若頭と同じように本部長補佐を置く組織もあります。
五代目山口組には副本部長と言う役があり、
二代目吉川組々長・野上哲男が就いていましたが、
六代目になって副本部長と言う役はなくなりました。

若中の代表である若頭と同じように、
舎弟の代表として「舎弟頭」という役があり、
舎弟頭は一般的には代貸し(ダイガシ)と呼ばれます。
だいたい舎弟は執行部から距離を置いたポストですが、
舎弟頭は執行部に入ります。

「若頭」「本部長」「舎弟頭」を三役と呼び、
どの組織においてもこの三つのポストには
その組の重要な人物が就任し、
この三役を中心に執行部を構成するのが
一般的となっています。

顧問・相談役
六代目山口組で言うと顧問は章友会の
石田章六会長です。
石田章六は三代目田岡一雄時代から
本家の直系組長で、司忍組長よりも
本来はかなり先輩に当たります。
代替りしていく過程で新しい体制や役職が
決められる訳ですが、新組長から特に
業界でのキャリアや人物が認められている場合、
顧問や相談役に就きます。
ただし六代目山口組としての活動の中心は
執行部にあり、組織全体に対しては
あまり発言権はありません。

一次団体は組長の集まり
二次団体は組長から直盃を下ろされた直参
三次団体は直系組織が約80団体あるので、
全国に数百団体~千団体はあるものと思われます。

小松島抗争事件
昭和31年(1956年)7月13日
夏祭りの夜、小松島市内の繁華街にあるパチンコ店
アルプス」の2階にある本多会系の
勝浦組傘下の平井組事務所に、
三代目山口組系二代目小天竜組の組員3人が
日本刀を手に殴り込んだ。
平井組も応戦し二代目小天竜組の組員1人が死亡、
2人が重傷を負い、平井組の組員2人も重傷を負った。
パチンコ店「アルプス」は平井組々長・
平井龍雄が経営していた。

背景
徳島県小松島市は、戦前から博徒として
二代目山口組々長・山口登の舎弟で
初代小天竜組々長・新居利治と、
テキヤ稼業の平井組々長・平井龍雄が
同じ地域で小競り合いを続けていた。
昭和22年、新居良男が二代目小天竜組々長に
代替りしても対立は変わらなかった。

経過
同年7月16日
事件から3日後、地元の有力県会議員や
本多会最高幹部の吉田会々長・
吉田友三郎らの奔走で、事件は
早急に手打ちとなった。

昭和32年(1957年)10月13日
かねてから二代目小天竜組と対立関係にあった、
平井組と同じく勝浦組傘下の福田組の者が、
小天竜組事務所前の神田瀬川岸壁で
若い男とケンカして、相手を
水死させる事件を起こした。
小天竜組の組員は、自分の事務所前で
トラブルを起こされた事で腹を立て、
福田組の組員を川に突き落とした。

同年10月17日
山口組本家に相談すべく、
二代目小天竜組々長・新居良男は神戸へ向かった。
新居から話を聞いた山口組若頭の地道行雄は、
山広組々長・山本広と地道組の若頭・
佐々木道雄を連れ本多会の幹部と話し合い、
和解する事で話はついた。

同年10月20日
神戸からフェリーで小松島港に着いた
二代目小天竜組々長・新居良男を
福田組の組員が銃撃。
三発の銃弾を受けた新居は重傷を負ったが、
一命はとりとめた。
この銃撃事件は地道を激怒させ、
安原政雄、吉川勇次、山本健一、尾崎宗次(彰春)
山口組の組員ら100人以上を動員し
小松島行きのフェリーに乗り込んだ。

同年10月21日
本多会の酒井吾意智と山口組の安原政雄が
小松島署を訪れ、事態収拾の意向を伝えた。

同年10月24日
両者の間で和解が成立。
仲裁には自民党の小西寅松代議士も介入している。

事件後
二代目小天竜組々長・新居良男が銃撃を受けた直後、
山口組は即座に大量動員し小松島に集結したが、
一気に攻撃を仕掛けるでもなく、
相手の出方次第という構えを見せた。
この時の示威行為とも言える圧倒的武力を背景にした
大量動員は、その後各地へと侵攻する
三代目山口組では幾度も繰り返された。
そういう意味でも山口組の全国制覇に向けた
先駆けとも言える事件だった。


次回、歴代の組長(山口組三代目襲名)

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人の為(ため)と書いて
いつわり(偽)と読むんだねぇ

誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば、言い訳になるから……

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