読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

チャンネル・掲示板

チャンネル・掲示板

幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない



Mousou2 昨日という日は
歴史、
今日という日は
プレゼント
明日という日は
ミステリー 
 
 

 
子を持つも持たぬも人の宿命(さだめ)なり 
日に日に努めて行かむ
あなたの人生なんだから好きなように
お行きなさい(生きなさい)



「母より」

僕の高校時代はとても悲惨でした。と言っても
友達はいたし、虐められてたわけでもない。
何が悲惨だったかというと、1年生の時に
母親が兄と妹を連れて家を出て行ったんです。
僕と父を残して。

とても悲しくなりました。なんで僕を置いて
行ったんだ?と。僕は捨てられたんだ、と。
怒りがこみ上げてきて、母を兄を妹を憎みました。
父は何も言わず、ただただ仕事が忙しいと
家に帰ってきませんでした。

そして僕の高校3年生の誕生日の日に
一通の封筒が届きました。
封筒は母から僕に宛てられたものでした。
中には3つの誕生日カードと
1つの手紙が入っていました。

誕生日カードは字を覚えた妹と兄、
そして母のものでした。
誕生日カードは開くとオルゴールが
鳴り出す仕組みだったのを覚えています。

妹は、「お誕生日おめでとう。お兄ちゃん。
私は元気です!」
兄は、「誕生日おめでとう。元気にしているか?」
母は、「お誕生日おめでとう。体は大丈夫ですか?」
破りたくなった。何を今更。と思った。

しかし、一緒に入っていた手紙を見た瞬間、
涙が溢れてきました。手紙には、
「あなたも一緒に連れて行きたかった。
でも、あなたが必死に勉強して入った高校を
辞めさせる事は母親として出来なかった。
本当にごめんね。こんな母親でごめんね。

もしも願いが叶うなら、私が死ぬまでに
一回だけでいいから、あなたに会いたいです。
母より」と書いてありました。

僕は中学生の時、母親に大学に行きたい。と
言ったことを思い出しました。
母が僕が大学に行くには父の所にいたほうが
いいと思って、僕をあえて連れて行かなかったんだと
知ったんです。
母にはまだ会えていませんが。
いつか会いに行きたいと思っています。

終わり



『家族写真』

俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。
見た目普通の写真なんだけど、実はその時
父が難病を宣告されていて、「それほど持たないだろう」と言われ、
入院前に「今生最後の写真はせめて家族と・・・」と
撮った写真らしかった。

俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、
母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた表情で写っている。
当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、
とても穏やかな表情だった。

母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、
その写真を見せられた父は特に興味も示さない様子で
「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」と
ぶっきらぼうに言ったらしい。

母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、
見たがらないものをあまり無理強いするのもよくないと思って、
そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。

しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に
改めて見つけたその写真は、まるで大昔からあったような
ボロボロさで、家族が写っている部分には父の指紋が
びっしり付いていた。

普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに
平常だった父だが、人目のない時、病床でこの写真を
どういう気持ちで見ていたんだろうか。

お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。
祖父、祖母、母、妹、俺・・・。

その写真の裏側には、もう文字もあまり書けない状態で
一生懸命書いたのだろう。崩れた文字ながら、
「本当にありがとう」とサインペンで書いてあった。

終わり



『ムービー』

数年前に母方の祖母が亡くなった。

私たちが住んでいたのは岩手で、母の実家は新潟だった。
遠いので頻繁に向こうの親戚には会えなかったが、
毎年夏に車を走らせ家族4人、父、母、兄、私で
会いにいっていたし、年に数回は互いに梨やお菓子、
手紙などを送りあっていた。
私が高校生になった頃、いつもは夏休みを使って
新潟へ行っていたけれど、夏休みも忙しく、
「高校生だから、もう少したったらまた皆でいこう」と
母は言った。

そんな時、向こうの祖母が倒れた。
一度家族で病院へ見舞いに行った時、
祖母は私の制服を見て「セーラー服なんだねぇ、
可愛い、可愛い」と言ってくれた。
祖母は去年会った時より見違えるほど痩せていて、
髪の毛もなかった。
年に何度も会いには行けず、母は頻繁に
電話をするようになっていた。

その次の年に祖母の体調が急変し、
急遽母は休みを取って次の週に一人で会いに
行くことになった。
母は私たちに携帯を向けて「おばあちゃんに聞かせるから、
何か喋って」と、嬉しそうにムービーを撮った。
慣れないことに少し恥ずかしくてろくなことも言えなかった
気がする。
「おばあちゃん、頑張って」ぐらい。
祖母が亡くなったのはその週末だった。

葬式は祖母が褒めてくれたセーラーの制服を着て出た。
葬式が始まる前、部屋で母と二人でいると、
「声…聞かせてあげれなかったね、間に合わなかったね…」と
今まで聞いたことのないようなか細く、涙ぐんだ声で話した。
つい先日、嬉しそうに、声を聞かせてあげれると
ムービーを撮っていた母の姿を思い出し、涙が出た。

そのムービーがまだ母の携帯に残ってるかは分からない。
でもそれから母がふと祖母の話をする度に
あの時の姿が浮かび、私は涙をこらえるようになった。

終わり



『惚れた女が死んだ夜は 』





時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる


添うて苦労は覚悟だけれど、
  添わぬ先から、この苦労