流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

妄想物語

信じれば真実、疑えば妄想

時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる

昨日という日は歴史、
今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


Mousou2 日本最大の組織
(山口組)
 
創設100周年を迎えた
山口組。 
その知名度とは裏腹に
内情はあまり
知られていない。
 
 
 
その組織はいつどのように誕生し、
過去から現在までどのように膨張し、
巨大化してきたのか・・・
そしてなぜ今衰退傾向にあるのか・・・

今なお日本最大組織であり続ける
山口組とはどういう組織なのか。

当記事は、
殺人や犯罪を助長する訳ではありません、
話題がヤクザの事なので、
当たり前のように書いています。 




一和会の襲撃部隊

1985年1月26日四代目山口組の竹中正久組長、中山勝正若頭、
南力組長秘書らが4人組の襲撃班により射殺された。
実行犯は4人。二代目山広組内同心会々長・長野修一、
二代目山広組直参・長尾直美、二代目山広組内清野組幹部・
田辺豊記、二代目山広組内広盛会幹部・立花和夫、
この実行犯4人の他に尾行や見張り、襲撃班への
連絡役3人がいたとされている。

実行犯4人の人選をしたのは、二代目山広組の若頭で
三重県に本拠を置く後藤組々長の後藤栄治だった。
竹中組長暗殺はこの後藤栄治と石川裕雄の二人を中心にした
混成部隊で行われた。
石川裕雄はこれら暗殺チームの総指揮をとった
首謀者とされている。事件当時石川は36歳。
前年の一和会発足と同時に北山組から一和会々長の
山本広の直参に直っていた。

当初石川は先頭に立ち自分自身の手で竹中を殺る事を考え、
自身の率いる悟道連合会の者数名にその手伝いをさせるつもりで
準備にかかっていた。あくまでも自分が実行役との考えでいた。

ターゲットを竹中組長一本に絞り、竹中組長の身辺を調査して
愛人の住む吹田市江坂のマンションもすでに割り出していた。
トップの竹中組長にターゲットを変更した理由は、
8月に山口組から友誼団体に向けて出された「義絶状」が
大きく影響したと考えられている。

石川は竹中組長の愛人が住む江坂の同じマンションの別階に
襲撃拠点とするための部屋も借りていた。
マンションを見渡せるビルの屋上に見張り役が張り込み、
竹中組長の動きをマンションの別階の部屋で待機する
襲撃班に無線で知らせるという段取りだった。


襲撃事件後

三代目山口組系北山組の石川としてヤクザ稼業にあった石川だが、
分裂後一和会に連なり一和会々長・山本広の直参に直っていた。
石川のヤクザとしての立場上からも山口組は抗争相手となり、
トップに立つ竹中組長は暗殺すべきターゲットとなっていた。

事件後、現場の見張り役から連絡を受けた石川は
一和会本部に向かった。そして二番目、三番目のターゲットとして
渡辺芳則と宅見勝の名前をあげ、その暗殺を志願している。
しかし一和会の幹部らは反対した。この時石川は
一和会の負けを悟った。
山口組の猛反撃を考えるとここが勝負の潮目だった。
その後の山口組を見るとこの時の石川の見方は、
かなり正確に戦況を見ていたという事が今になって分かる。

竹中組長の暗殺については一和会内でも
やり過ぎという意見とよくやったという意見に評価は割れていた。
一方の後藤栄治は、山口組系弘道会内菱心会組員・
竹内照明らに自身が率いる後藤組の若頭・吉田清澄を拉致され
後藤組の解散を迫られた。

これに対し後藤栄治は、解散届を三重県津警察署に届け、
速達で山口組本部に「詫び状」を送付。
吉田清澄の解放と引き換えに自首する事を約束。
菱心会組員・竹内照明らは吉田を解放したが後藤栄治は
自首しなかった。

この拉致事件に関わった竹内照明は現在
三代目弘道会の会長になっている。
そして指名手配を受けた石川は一年半後の1986年7月
福岡県のゴルフ場で逮捕された。
後藤栄治は石川と同様に指名手配されたが、
その後現在に至るまで行方をくらませたままとなっている。

その後、見張り役3人に20年、実行役4人に無期懲役
石川には死刑が求刑された。
石川は公判で、「自分の信念でやったこと、
皆は自分の命令に従っただけで、責めは自分一人にある」と
死刑求刑に眉一つ動かさなかった。
求刑に狼狽した弁護人が石川に解任を申し出たが、
逆に石川がなだめて慰留している。

1987年3月、大阪地裁は見張り役3人に10年、
実行役4人に20年、石川には無期懲役を言い渡した。
しかしこれらの判決を不服とした検察側が控訴した。
そして1989年3月、大阪高裁は検察側の控訴を棄却し
一審通りの判決で確定した。

事件からおよそ30年がたつ。石川裕雄は現在も
旭川刑務所に服役している。
無期懲役とはいえ石川はすでに仮釈放の対象となる時期に
来ている。しかし仮釈放にはいくつかの要件を満たす必要があり、
受刑者も面談を通して刑務所側の意向に沿う
意思表示をしなければならない。

具体的には、自分の罪は間違いであり、今は反省しているという
意思表示と、ヤクザを辞めるという意思表示が必須となる。
石川は今も自分は現役のヤクザであると意思表示している。
裁判でも石川は被害者について、「冥福を祈っている。
それが仁義というものだ」としながらも
「日本男児としてやらねばならなかった」
「正義をつらぬきたかった」と言い切っていた。
こういう石川の仮釈放は難しい。
「時期」は満たしても「要件」が満たせない。

しかし、石川を待つ支援者達は1日も早く仮釈放されるのを
今も待ち続けている。
かつて三代目山口組において兄弟分同士であった者たちが、
分裂後命の奪い合いをしたのが山一抗争である。
この抗争はヤクザの刹那と残酷さを改めて世間に知らしめた。
抗争は山口組側の勝利で幕を下ろしたが、
歴史は勝者の歴史であり大いに美化される。
しかし石川裕雄のように山口組の歴史上かつてないほどの
ダメージを与えた者はいないだろう。
石川の仕事は極道として実に鮮やかであったと言うほかない。


石川裕雄とはどういう男なのか

石川裕雄は北山組時代の昭和40年代の後半に
同じ山口組系の小西一家の若頭を日本刀で斬殺するという
事件を起こしている。
原因は相手が北山組の者に覚せい剤を売る事を
石川が何度も諫めたが、相手がそれを聞き入れなかった事が
原因だった。この事件は相手にも落ち度がある事、
相手が先に拳銃を発砲してきた事、
石川が相手を病院に運び込んだ事、
その後自首した事もあり殺人罪ではなく傷害致死罪で
起訴された。

事件の原因となった経緯について直系組長間で話し合われたが、
山口組は薬物をご法度としている事もありその点で
石川に大きな非はないとされ、小西一家と北山組の間で
抗争に発展する事はなかった。この件で石川は断指している。

5年間服役し出所した石川はアメリカのネバダ州に留学した。
語学以外に現地では空手大会に参加したり、
空手で知り合った現地の警官から射撃訓練を受けたりした。
この頃傭兵として紛争の続く中東に渡る事も
一時は真剣に考えたが、日本へ帰国することにした。

石川が帰国した頃は京都のベラミで田岡組長が
大日本正義団の鳴海清に狙撃され大阪戦争ピークの頃だった。
三代目山口組の時代、石川は山健組の渡辺、
北山組の石川と並んで称されるほど、将来の山口組を
背負って立つ人物と評価されていた。
 
 
 

人の為(ため)と書いて
いつわり(偽)と読むんだねぇ

誰にだってあるんだよ、
人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、
人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば、言い訳になるから……




司忍が語った弘道会の強さ

山一抗争真っ只中の昭和63年(1988年)に
作家の溝口敦が、当時弘道会々長の司忍に
取材をした時の内容。
司忍 「うちに強いというイメージがあるとしたら、
結局、われわれが神戸から中京に入って行った時には
『なんや山口組?どこの組や?』いう時代だったでしょう。
しかも警察の圧力、地元の団体の圧力に
絶えずさらされておった。

それからうちの一組で五つも六つも地元の組織と
やり合って、ずーっと来てるから。今回みたいな
大きな抗争(山一抗争)になっても、手弁当
喧嘩するいう意識が残ってる。
ゼニはないけど、握り飯食ってでも喧嘩やるぞという
気持ちがあるから。うちは貧乏してる組だから、
手弁当で『よっしゃ、喧嘩するんや』といういいとこは
残っとるわね、田舎の出の人間が多いもんでね(中略)。

まあ極端に言えば、我々山口組の者が、
日本全国どこも山口組の縄張りなんや、と。
よそ様の費場所で飯を食わしてもらっとるんだという意識は、
我々は持ってない訳ですな。
開拓したとこは城なんやと、そういう気持ちでおるもんで、
そこら辺のギャップというか、やっぱりあるわな」…