読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

妄想劇場・特別編

妄想劇場・特別編

信じれば真実、疑えば妄想……

Mituo 
昨日という日は
歴史、
今日という日は
プレゼント
明日という日は
ミステリー

 
 
 
 
誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば愚痴と、言い訳になるから……



『天才・羽生結弦』-2

天才・羽生結弦を育てた「羽生家の家訓」 
決して表に出ない両親、祖母、叔母、
個人トレーナーが明かした新事実

羽生結弦はなぜ、あれほど心が強いのか。
彼のスケートを見た人が抱く疑問だ。
普段は少年のようにあどけないのに、競技中の
眼差しには炎が宿る。
天才スケーターを育んだ両親の実像に、迫る。

Sketo2


羽生の父親の妹で、
現在は保育士を務める叔母の談話。

『兄(羽生の父親)の問いかけは、…』


ゆづがもう一度スケートに対する思いを確かめる、
いいきっかけになったようです。
それ以来、兄(羽生の父親)は決してスケートに対しては、
口を出しませんでした。ゆづに『もっと頑張れ』、
『もっと練習しろ』とは言わず、一歩下がって、
『おっ、頑張っているな』と声をかけて、見守るというのが、
兄(羽生の父親)のスタンスでした。

ゆづの運動神経と、あの体型は奥さん譲りでしょう。
うちの家系は野球好きですが、運動が
得意な家系ではないし、手足も長くないですから
(笑)」(叔母)
前出の都築氏は、羽生の両親の教育方針についてこう語る。

「羽生家の場合、あるときは密接で、
あるときは突き放すという教育をされていた気がします。
子供にやらせるのではなく、子供が関心を持ったことに、
可能な限り協力する。子供の『自主性』を尊重するのが、
羽生家の教育方針でした」

『スケートだけの人間になるな』

そうして続けたスケートで、羽生はますます才能を開花させていく。
小学4年生の時にノービス(ジュニアの下のクラス)の
全国大会で初優勝。中学1年では、ノービス選手にもかかわらず、
全日本ジュニア選手権で3位に輝いた。

羽生が中学、高校と進学するにつれ、
両親は「自主性」を重んじる一方で、スケートだけの
人間にならないよう、口を酸っぱくして言い聞かせてきたという。
羽生が通っていた東北高校五十嵐一彌校長が明かす。

「羽生君は勉強もスケートもきちんと両立していました。
やはり親御さんの教えがあったからだと思います。
お父さんは『フィギュアだけでなく、勉強もしなければダメだ』と
羽生君に常日頃言っていたようで、
遠征先にも教科書や参考書を持ち込んで勉強していました
。中学のころから成績もよくて、特に理数系が得意でした。
お父さんが数学の先生という影響があるのかもしれませんね」

'10年にはシニアデビューを果たし、
'11年、四大陸選手権で銀メダルを獲得。
史上最年少のメダリストとなった羽生は、
高校3年時の'12年5月、さらなるレベルアップを目指して
海を渡る。

バンクーバー五輪金メダリストのキム・ヨナの指導者だった
ブライアン・オーサーに師事するため、
地元仙台を離れ、カナダのトロントに母と二人で移住したのだ。
父と姉を地元仙台に残し、異国の地で、母と羽生の
二人の生活が始まった。

「最初は言葉の壁や生活環境に馴染めず、苦労したみたいです。
カナダは肉料理が多いのですが、結弦は食が細いので、
外食で胃がもたれることもあった。
そこで、お母さんは家で消化の良い鍋を食べさせるなど、
結弦の健康管理には相当気を遣ったみたいです」
献身的な母の支えもあり、なんとかカナダでの生活が軌道に乗ると、
羽生はオーサーの指導をどんどん吸収し、メキメキと腕を上げていった。

『羽生を長く取材するスポーツライター』は、

オーサーの指導方法が、羽生の両親の考え方とも合っていたという。
「オーサーは選手とのコミュニケーションを非常に
重要視するコーチです。
『この技術はこうしないといけない』と決めつけるコーチもいますが、
オーサーはまったく逆。
言葉を尽くして選手と話して、その選手にあった方法を
一緒に探してくれるんです」

リンクの上では、常に射るような眼光で、メンタルの
強さを感じさせる羽生。だが、幼いころから羽生を知る
スケート仲間は、羽生の中には今も「二面性」があると言う。

「強いゆづと弱いゆづ、その二つです。
あれほどの選手になっても、弱いゆづは
完全になくなったわけではない?
いや、その弱さがあるからこその、ゆづなんです」

象徴的な出来事が、あの3・11、東日本大震災の日にあった。
地震が起きた瞬間、羽生はアイスリンク仙台で練習中だった。
突然すさまじい轟音と共に大きな揺れに襲われると、
羽生は先輩スケーターにしがみつき、「やだやだやだ」と叫んだ。
先輩が「大丈夫、大丈夫だから」と言っても、
ただ泣いて震えていた。

リンクの氷は割れ、建物も半壊状態。
家族は全員無事だったものの、電気、ガス、水道などの
ライフラインが寸断され、自宅にも戻れず、
家族で4日間、避難所生活を強いられた。
「こんな状況でスケートをやっていていいのか」
恐怖が去った後、羽生を支配したのはそんな感情だった。
悩む羽生に前を向かせたのは、母の後ろ姿だったという。

「お母さんはまさに駆けずり回って、
結弦が練習を再開できるよう、スケート連盟やコーチにも
片っ端から頭を下げて回っていた。
こんな時だからこそ、結弦は滑らなければならない。
ここでへこたれてはならない。
母のその思いが結弦には伝わったのでしょう。
『僕は自分のためだけに滑ってるんじゃない』と、
彼が口にし始めたのはこの頃からです」

グランプリシリーズ中国杯で、激突事故の直後に
強行出場をしたことが、日本国内で賛否両論を巻き起こした。
だが、前出のスケート仲間は、「あそこで出場しなければ、
それはゆづじゃない」と断言する。
「批判する人たちは『アスリートとしてどうだったのか』と言いますが、
ゆづは単なるアスリートじゃないと、僕は思います。
もう少しロマンチックな、わかりやすく言えば

『少女漫画に出て来る主人公』みたいな奴なんです。
使命感という言葉が適当かどうかはわからないけど、
リンクに立てる以上は、あそこで棄権するという選択肢は
ゆづにはありえなかったはずです」

『もう一人の支えは整体師』

あの時、流血する羽生に寄り添い、
肩を抱きかかえていた初老の人物を、
覚えている人も多いだろう。
個人トレーナーで整体師の菊地晃氏だ。
羽生にとって菊地氏は「精神安定剤」とも言われ、
喘息の治療にも関わってきたとされるが、
菊地氏は気功術のようなものを使うため、
一部週刊誌で「怪しげな人物」と取り上げられたこともある。

「かつて横綱貴乃花がそうだったように、
スポーツ選手は整体師や占い師に心酔しやすい。
菊地氏は『チャクラの仙人』などと呼ばれ、
ファンの間でも胡散臭いと思われているようですが、
羽生本人はもちろん、羽生の両親からも
絶大な信頼を得ています」(前出のスポーツライター)

仙台市内にある菊地氏の接骨院を訪ねると、
取材は拒否されたが、施術を受けながら
少し話を聞くことができた。
「僕が羽生君の精神的な支えになっている?
そんなことはありません。僕はただの整体師です。
むしろ羽生君に感謝していますよ。
未知の世界に連れて行ってもらえたわけだから。

本人も立派ですが、やはりご両親が立派な方です。
いちばん立派なのは、感謝の気持ちを忘れないこと。
金メダルを取れば、本人も親も天狗になっても
おかしくありません。
ただ羽生家の場合は、かれこれ10年以上の
付き合いになりますが、出会った頃と何も変わらない。

感謝の姿勢は、ご両親が羽生君に言葉で教えたわけでは
ないと思います。
両親の背中を見て、自然と身についたのでしょう」
周囲が菊地氏のことをどう言おうが、信頼関係は揺るがない。
自分たちの目と感覚を信じて、今もリンクサイドに立ってもらう。
それもまた、羽生家のブレない姿勢である。
様々な試練を経て、現在の羽生結弦がある。
決して驕らず、でも信念は譲らない。
そんな羽生をつくったのは、決して表舞台に出てくることのない、
この両親の教えだったことは間違いない。…

終わり

Author :「週刊現代




『悲しみを終わらせて』




君は吉野の千本桜、色香よけれど、
気(木)が多い



時は絶えず流れ、
今、微笑む花も、明日には枯れる







 
Furo611