流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

妄想物語

信じれば真実、疑えば妄想

時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる


昨日という日は歴史、
今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー



Mousou2 日本最大の組織
(山口組)
 
創設100周年を迎えた
山口組。 
その知名度とは裏腹に
内情はあまり
知られていない。

 
 
その組織はいつどのように誕生し、
過去から現在までどのように膨張し、
巨大化してきたのか・・・
そしてなぜ今衰退傾向にあるのか・・・ 
今なお日本最大組織であり続ける
山口組とはどういう組織なのか。

当記事は、
殺人や犯罪を助長する訳ではありません、
話題がヤクザの事なので、
当たり前のように書いています。 



山口組々長と国籍

昔から言われる噂として、
「在日の者は当代になれない」というのがある。
これまでに代をとってきた者は初代山口春吉から
山口登は親子の関係である。
三代目田岡一雄、四代目竹中正久、
五代目渡辺芳則、六代目司忍らは
皆日本人だと言われている。

山口組の代を継ぐにあたってはっきりと
明文化されている条件というのはないものの、
そう言われる根拠が過去にはあった。

三代目田岡組長の頃、田岡は
たとえ組織に功績ある者であっても
在日韓国人を執行部には入れなかった
事実がある。

当時田岡の若中に柳川次郎という
在日韓国人がいた。
彼の率いる柳川組は在日韓国人を中心に
組織され、抗争を繰り返しながら
日本各地に進出し、
殺しの軍団と恐れられ最盛期には
約2000人の組員を抱え山口組傘下の
二次団体でありながら広域暴力団
指定されるほどの大組織だった。

田岡の野望、全国制覇の先駆けとなり
実績も組織力も申し分のない柳川組であったが、
山口組の執行部には入る事がなかった。
大組織でありながらもいわゆる
「ヒラの若中」という不自然さがあった。

こういう事実からも在日組員に対して
田岡は何らかの考えがあったのでは
ないだろうか・・・と言われている。

柳川組はその後組織を解散するのだが、
このとき当局から強制送還を引き合いに出され、
脆くも解散したのではないかと言われている。
このことから田岡は帰化しない在日韓国人
組織の中心に置くことをあえて
回避していたのではないかとみられている。

時代は進んで六代目の現在。
顧問や執行部には帰化していない在日韓国人
幹部は登用されている。
当時とは時代背景も違い強制送還の用件も
変化している。
まして山口組においても在日韓国人組織の
功績を抜きにして現在の繁栄もなかったはずである。

他の指定暴力団には在日韓国人トップもいる。
山口組においてもトップや執行部の国籍自体が
組織にそれほど影響を及ぼす事は
今の時代ないのではないだろうか・・・
しかし田岡の伝統に拘るのであれば、
今後も代を継承するのは
日本人に限られるのかもしれない。…


『グリコ・森永事件の黒幕といわれた人物』

グリコ・森永事件の捜査において、
最大の作戦といわれた「B作戦」。
元三代目山口組の直系組織、
黒澤組組長・黒澤明黒沢明)のクロサワの
頭文字「B」から「B作戦」と呼ばれた捜査があった。
この黒澤明という人物は、元々殺しの軍団と呼ばれた
初代柳川組組長・柳川次郎の舎弟だった。

昭和34年(1959年)柳川組が山口組入りする際、
当時の山口組若頭、地道組組長・地道行雄の
舎弟として加入するのだが、
その時柳川組から昇格する形で、
福田留吉、園幸義、黒澤明が地道から直盃を受け、
地道組傘下となった。

黒澤は直後に起こった明友会事件では、
長期服役している。
昭和44年(1969年)地道行雄が亡くなると、
地道組若頭の佐々木道雄が、佐々木組として
田岡の盃を受け山口組直系組織に直るのに伴い、
黒澤明は佐々木の舎弟となる。
その後佐々木組から昇格し田岡の盃を受け
三代目山口組の直参となった。

直参となってからの黒澤は、田岡の懐刀とされ
当時荒れていた沖縄ヤクザの和平交渉に乗り出し、
旭琉会と山口組系組織の縁組を取り持った。
また静岡の美尾組を黒澤組傘下に加えるなど、
東海や関東方面の系列化に貢献した。

その手腕から「山口組のキッシンジャー」と
呼ばれた黒澤だったが、昭和59年(1984年)に起こった
山口組四代目組長の座を争う一和会との分裂時に
どちらへも加入せず引退した。
解散した黒澤組は黒誠会と美尾組に引き継がれ、
四代目山口組の直参に直った。

グリコ・森永事件が起こったのは、ちょうど
黒澤がヤクザを引退する頃だった。
平成に入ってからグリコ・森永事件の捜査の
最大のヤマ場を迎えたのが、この「B作戦」だった。
そしてこの作戦が立ち上がった根拠がいくつかある。

黒澤がグリコから5億円を脅し取ろうとして
拒否された過去があること。
黒澤の銀行口座に被害企業の関係者から
3億円の入金があったこと。
犯行に使われたのと同種の和文タイプライターや、
タクシー払い下げ車輌を親族が所有していること。
グリコに恨みを持つ人物が周辺にいたこと。
53年テープに登場する人物と接点があること。

(昭和53年、部落解放同盟幹部を名乗る男の声で、
金を要求するテープがグリコ常務に送られた事件)
捜査本部は平成4年(1992年)、極秘裏に
黒澤明を始めとする対象者数人に任意同行を求めて
事情聴取を行った。

マスコミの目を避けるため黒澤の事情聴取には
大阪市内のホテルの一室が使用された。
任意の聴取に応じた者に容疑を認める者は誰もおらず、
物証もない。
アリバイもあった。黒澤にしても同じだった。
3億円の入金についても「現役時代には、
あちこちに金を貸していたから誰に貸したか
覚えていない。
それらが返済に振り込んでくる事がある。
それより振り込んだとされてる者の証言は
取れているのか?」これが決め手となった。

振り込んだとされる人物が頑なに
振込を否定していた。
捜査本部が最後に総力を挙げた「B作戦」だったが、
何ら成果は上がらず、
事実上グリコ・森永事件の捜査は終了した。
本人にとって大変迷惑な事だと思うが、
黒澤明黒幕説は今だに囁かれている。


歴代の若頭・三代目時代
地道行雄 (地道組々長) 
昭和30年(1955年)~昭和43年(1968年)


『山口組入り』

昭和21年(1946年)4月
陸軍兵長として復員し、その後は神戸市福原で
自転車修理業を始めた。敗戦後、
地元神戸の不良在日外国人と喧嘩を繰り返すようになり、
山口組とも縁ができ組に出入りするようになる。
昭和22年(1947年)2月
三代目山口組々長となったばかりの田岡一雄から
盃を受け若衆となった。

昭和23年(1948年)
国と各自治体により競輪と競馬が施行され、
地元兵庫県でも競輪や競馬が開催されるようになった。
山口組と同じ兵庫県下に地盤を置く地元組織、
大島組、本多会、西海組、小田組、中山組らで
神戸競輪場の警備、予想屋、売店、タクシー、
自転車預かりなどのシノギを分け合った。
昭和25年(1950年)
公営ギャンブルにからんで諍いも起こり始めた。
地道が神戸競輪場の仕事に食い込んだ事で
西海組は地道に仕事の一部を奪われる格好になり、
西海組々員ら数人が地道の自宅に殴り込みをかけた。

自宅に一人でいた地道は、ドスで斬られて
重傷を負ったが、日本刀で反撃した。
数日後、地道は自ら率いる地道組々員らに
西海組の幹部を含む西海組々員7人を拉致させた。
地道は拳銃を手に、組員数人を連れて
西海組事務所に乗り込み、西海組々長と掛け合った。
これにより神戸競輪場の警備などの仕事を
山口組は西海組から手に入れた。

昭和30年(1955年)安原政雄の後任の
山口組若頭に就任。
地道の舎弟、柳川次郎を三代目山口組の
若中に昇格させる。
このころ地道行雄は、関西で膨張を続ける
柳川組を他府県に進出させることを
田岡組長に提案し、田岡もこれを了承した事で
柳川組が全国に侵攻するきっかけになったと
言われている。


『山口組解散を唱える』

昭和41年(1966年)
さんちかタウンの建設工事にからんで、
恐喝事件として兵庫県警に逮捕される。
地道は11月に妻の父の葬儀のため4日間だけ
拘留を解かれた。
その期間に菅谷政雄や梶原清晴、小西音松らと会い
山口組解散を提案した
。地道の意志は他の直系組長達にも伝わっていたが、
全員が山口組の解散に同意していた訳ではなかった。

特に山本健一は地道の公判記録にも目を通し、
地道の供述内容に田岡自身が
金銭の受け渡しに関わっているという部分を目にし、
激怒していた。

入院中の田岡不在で開かれた直系組長会では、
地道の根回しもあって多数決では
解散に賛成する意見が解散派を上回った。
しかし病床にある田岡が頑として解散を
否定していた事もあり、山口組解散の話は
立ち消えとなった。

田岡が解散を否定した事で、
解散派の先頭に立っていた若頭の地道は
立場をなくし、同時に田岡からの信頼も
失う事となった。
昭和43年2月7日
田岡一雄は、地道行雄を若頭から解任した。

昭和44年(1969年)4月27日
地道は体調を崩し自宅で吐血した。
妻が110番通報しパトカーで搬送されたが、
5つの病院が拒否し受け入れ先が見つからなかった。
地道の妻は田岡一雄の妻であるフミ子に依頼し、
地道はようやく関西労災病院に入院した。
末期の肺ガンだった。
同年5月15日
地道行雄は関西労災病院で死亡。享年47。

三代目山口組の全国進出の指揮を執り、
組織の巨大化に多大な貢献をした地道だったが、
山口組の解散を唱えた事で、
最終的には組長の田岡や組の存続派の反感を買った。
若頭を下ろされ舎弟に直っていた地道が率いた
地道組の跡目継承は行われず、
地道組若頭の佐々木道雄が佐々木組とし
て田岡一雄の直参に直った。

Author:山口組情報局 All rights reserved.

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『硝子のピアス』 チャン・ウンスク
作詞:建石一:作曲:徳久広司


今夜で終わりね 悲しいけれど
もうあなたに 逢わない
淋しさかくして 恋人芝居
演じているのは むなしい
愛さえあれば 幸せになれる
そう言い聞かせて 来たけれど
ガラスはガラス 色づけしても
ダイヤモンドじゃ ないのね
あなたにとって 私はきっと
硝子のピアス 飾りの女




人の為(ため)と書いて
いつわり(偽)と読むんだねぇ

誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば、言い訳になるから……

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