流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

妄想物語

信じれば真実、疑えば妄想

時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる


昨日という日は歴史、
今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー



Mousou2 日本最大の組織
(山口組)

創設100周年を迎えた
山口組。 
その知名度とは裏腹に
内情はあまり
知られていない。

 
 
その組織はいつどのように誕生し、
過去から現在までどのように膨張し、
巨大化してきたのか・・・
そしてなぜ今衰退傾向にあるのか・・・

今なお日本最大組織であり続ける
山口組とはどういう組織なのか。

当記事は、
殺人や犯罪を助長する訳ではありません、
話題がヤクザの事なので、
当たり前のように書いています。 


小松島抗争 昭和31年(1956年)
小松島抗争事件

昭和31年(1956年)7月13日
夏祭りの夜、小松島市内の繁華街にあるパチンコ店
アルプス」の2階にある本多会系の勝浦組傘下の
平井組事務所に、三代目山口組系二代目小天竜組の
組員3人が日本刀を手に殴り込んだ。
平井組も応戦し二代目小天竜組の組員1人が死亡、
2人が重傷を負い、平井組の組員2人も重傷を負った。
パチンコ店「アルプス」は平井組々長・平井龍雄が
経営していた。

背景
徳島県小松島市は、戦前から博徒として二代目山口組々長・
山口登の舎弟で初代小天竜組々長・新居利治と、
テキヤ稼業の平井組々長・平井龍雄が同じ地域で
小競り合いを続けていた。
昭和22年、新居良男が二代目小天竜組々長に
代替りしても対立は変わらなかった。
勢力においては、平井組が数の上でも優勢で、
平井組々長・平井龍雄は四国のテキヤ業界でも
切れ者で通っていた。
その平井組がパチンコブームに乗り、昭和25年に
「大小」という機械を置いて商売を始めた事から
博徒組織である天竜組は「賭博は博徒の物なので
縄張り荒らしだ」と平井組に抗議。
これに対して平井組は「機械は盆とは違う」と抵抗したことで、
両者の関係は更に悪化した。そして事件は起こった。

経過
同年7月16日
事件から3日後、地元の有力県会議員や本多会最高幹部の
吉田会々長・ 吉田友三郎らの奔走で、
事件は早急に手打ちとなった。
手打ちになったとはいえ、根本的な原因は
解決された訳ではなく、両者の間に不気味なわだかまりは
残ったままだった。
しかし取り敢えず、抗争への発展は回避された。

昭和32年(1957年)10月13日
かねてから二代目小天竜組と対立関係にあった、平井組と
同じく勝浦組傘下の福田組の者が、小天竜組事務所前の
神田瀬川岸壁で若い男とケンカして、相手を
水死させる事件を起こした。
被害者は小天竜組とは関係のない人物だったが、
それを見ていた小天竜組の組員は、
自分の事務所前でトラブルを起こされた事で腹を立て、
福田組の組員を川に突き落とした。

福田組は、小天竜組が前年に事件を起こした平井組と同門で、
福田組々長・福田栄と平井組々長・平井龍雄は
同じ勝浦組傘下で兄弟分の関係にある。
前年の事件も今だくすぶっており、
福田組を相手取るとなれば当然平井組も福田組に肩入れし、
勝浦組ひいては本多会が乗り出してくる可能性もある。
そういう緊迫した情況のなか、現場取材の新聞記者を
二代目小天竜組々長・新居良男が小突いてしまい、
被害届を受けた県警に事件化されるという事も起きた。

同年10月17日
山口組本家に相談すべく、二代目小天竜組々長
新居良男は神戸へ向かった。
新居から話を聞いた山口組若頭の地道行雄は、
山広組々長・山本広と地道組の若頭・佐々木道雄を連れ
本多会の幹部と話し合い、和解する事で話はついた。
同年10月20日
神戸からフェリーで小松島港に着いた二代目小天竜組々長・
新居良男を福田組の組員が銃撃。
三発の銃弾を受けた新居は重傷を負ったが、
一命はとりとめた。

この銃撃事件は地道を激怒させ、
安原政雄、吉川勇次、山本健一、尾崎宗次(彰春)、
山口組の組員ら100人以上を動員し小松島行きの
フェリーに乗り込んだ。
神戸港小松島港それぞれに両県警が緊急配備し、
四国行きを断念するよう説得するため、フェリーには
兵庫県警の刑事も乗り込んだ。
地道ら山口組関係者は、あくまでも「見舞いに行く」と
応じなかった。
同じフェリーには急を聞いて本多会の副会長・
酒井吾意智も乗り込んだ。

同年10月21日
本多会の酒井吾意智と山口組の安原政雄が
小松島署を訪れ、事態収拾の意向を伝えた。
同年10月24日
両者の間で和解が成立。仲裁には自民党
小西寅松代議士も介入している。

事件後
二代目小天竜組々長・新居良男が銃撃を受けた直後、
山口組は即座に大量動員し小松島に集結したが、
一気に攻撃を仕掛けるでもなく、相手の
出方次第という構えを見せた。
これに対し本多会では積極的に和解へと働きかけ、
それを受ける形で山口組として和解に応じている。
この時の示威行為とも言える圧倒的武力を背景にした
大量動員は、その後各地へと侵攻する三代目山口組では
幾度も繰り返された。
そういう意味でも山口組の全国制覇に向けた
先駆けとも言える事件だった。


 『震災時に暗躍したヤクザの支援』




殺しの軍団柳川組解散の真実と嘘『』

三代目山口組内二代目柳川組は
昭和44年4月に解散した。

解散理由として伝えられているのは、
大きく分けて二説がある。
ある在日韓国人少女による柳川組を
非難した新聞への投書だったという説と、
柳川や谷川らに対して、当局が強制送還を持ち出し
解散を迫ったためだったとする説がある。

この二つの説については、
後年の柳川や谷川ら本人の口からは語られてはいない。
強制送還説の根拠としてこの頃、柳川組内の
有力組織神田組が解散しており、この神田の場合が
強制送還と引き換えにした解散だった。
この神田組の解散で、在日韓国人を中心とした
柳川組は、柳川組本体まとめて
強制送還されるのではないかと噂になっていた。

しかし強制送還にも対抗手段がないわけでもなく、
その一点だけで解散の理由となるには疑問が残る。
もちろん警察が主導して柳川組を解散に
追い込んだ事は間違いない事実だろう。
当時柳川次郎は名古屋刑務所に服役中。
一方谷川は大阪刑務所に服役中だった。

警察にとっても直接二人を攻め立てられる
環境になかった。
そこで突如同時期に大阪府警は、
他の柳川組関連の事件の事情聴取という名目で
柳川は大阪の旭署、谷川は同じく大阪の田辺署に
移送された。

柳川はすでに引退し、跡目を谷川に譲っていたが、
この谷川の説得には先代にあたる
柳川次郎を先に説得する必要があった。
ここで警察はこれまでの捜査で積み上げてきた
柳川組のごく一部の者しか知らないような
極秘事項や柳川組を支援してきた者の情報を
柳川本人の前に示した。

これは柳川を落胆させるに十分な内容だったようである。
この年、柳川組だけで逮捕者を150人以上も出しており、
幹部クラスも軒並み刑務所へ送られていた。
警察は強硬な切り崩しだけでなく、
旭署で何らかの「潮時」を柳川本人に
悟らせたのでははないだろうか・・・

二次団体でありながら単独で警視庁指定の
全国広域5大暴力団に指定され、
集中的な取締りも受け追い詰められているのも
事実だった。

当時の警察はヤクザの壊滅そのものより
「名称」の消滅に力を入れており
、「柳川組」の看板降ろしに懸命だった。
そういった時勢も十分に分っていた。
そしてその柳川を田辺署にいる二代目組長の
谷川に引き合わせ、
柳川から谷川に組の解散を説得させることになった。

谷川も簡単には同意しなかった。
この時柳川は谷川にこう言ったという。
「ワシらの恩になってる人まで巻き添えにしてしまう。
余計な事を喋るヤツがでてきて
、柳川組が残る限りは追及される。
柳川組がなくなりゃ、済む
」谷川の説得には丸2日かかっている。

解散に同意したものの、二代目柳川組は
三代目山口組の直系組織であり、
谷川は組長の田岡一雄の若中である。
解散について田岡組長へ御伺いをたてることになり
手紙を山口組の者に託した
。これも不運だった。

その手紙はその者の勝手な判断で
田岡組長には届けられなかった。
この事が柳川次郎と谷川康太郎に
最も重い処分をもたらした。
本家に相談なく勝手に組を解散したとして
絶縁処分となる。

晩年の谷川はこう語っている。
「解散のことならしゃあないね。食うだけは食えるし、
人を助けるのは、これは義理やし、
別に財産って、あってものうてもええしなあ」
柳川組の解散により交友する者の中に
助かる人間がいたのは事実のようである。

谷川の交友関係は多岐に渡り、
食堂の親父から弁護士、新聞記者、
政治関係、企業経営者と庶民的な付き合い
を大切にする人物だったという。

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『イジメの現場をヤクザが目撃 )




人の為(ため)と書いて
いつわり(偽)と読むんだねぇ

誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば、言い訳になるから……