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流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

妄想物語

時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる


昨日という日は歴史、
今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー 

 

Mousou2


日本最大の組織
(山口組)

 
 
 
創設100周年を迎えた山口組。
その公に対する知名度とは裏腹に
内情はあまり知られていない。
その組織はいつどのように誕生し、
過去から現在までどのように膨張し、
巨大化してきたのか・・・
そしてなぜ今衰退傾向にあるのか・・・

戦後の高度成長期の日本において、
度重なる抗争事件を繰り返しながら全国進出し、
現在の暴排条例という向かい風の中、
今なお日本最大組織であり続ける
山口組とはどういう組織なのか。

当記事は、
殺人や犯罪を助長する訳ではありません、
取り上げている話題がヤクザの事なので、
当たり前のように書いています。 

 

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昭和21年(1946年)~昭和56年(1981年)
神戸の山口組を全国区の巨大組織に押し上げた
カリスマ。


(1913年)3月28日、徳島県三好郡三庄村に生まれる。
1人の兄と3人の姉がいた。
父親は田岡が生まれる前に死去し、母親は
小学生の頃死去した。
その後、叔父に引き取られ、神戸市兵庫区に転居し、
小学校4年から新聞配達を始めた。
(1925年)、浜山小学校を卒業し、
尋常高等小学校に進学した。同級生に
二代目山口組・山口登組長の弟・秀雄がいた。
(1927年)3月、尋常高等小学校を卒業し、
川崎造船所に旋盤見習工として入社したが、
現場主任を殴打し退社した。


ゴンゾウ部屋からの出発

山口組二代目組長山口登の弟秀雄の誘いで、
二代目山口組の
ゴンゾウ部屋の世話になり、夜警の仕事に従事した。
このころに吉川勇次(後の三代目山口組若頭補佐)と知り合う。
(1930年)10月、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、
小屋主の態度に腹を立て、湊座の舞台に上がって
大暴れした。
山口組が湊座の用心棒を務めていた事からこれが縁になり、
田岡一雄は二代目山口組で行儀見習いをすることになった。

同年、田岡は神戸の賭場で岡精義
(後の三代目山口組七人衆)と知り合った。
(1932年)、山口登が後援会長を努める大関玉錦
前頭の宝川と揉め事を起こし、田岡は日本刀で宝川を襲撃し、
指2本を切断した上、額を割る事件を起こす。

(1934年)、海員組合の労働争議に介入した山口登の舎弟・
西田幸一が組合員たちに殺害されたことへの報復で
争議本部を襲撃し、組合長に斬りつけて一時九州に逃亡。
(1936年)、山口登から盃を受け、正式に若衆となった。
同年、深山フミ子と、同棲生活を始めた。
同年、山口登に口答えをし、怒りを買い、
山口登の怒りが収まるまで、東京の玉錦の元に身を寄せた。
その後、玉錦のとりなしで山口登から許しを得て神戸に戻る。

(1937年)2月25日、素行が悪く山口組を破門になった
大長政吉を福原遊廓で襲撃し、鉄瓶で殴打して頭を割る。
それに怒った大長八郎(政吉の弟)が、山口組事務所に
殴り込んできた。これを田岡が日本刀で刺殺。
このため殺人罪で懲役8年の実刑判決を受けた。
(1940年)、山口登は吉本興業の代理として
広沢虎造の移籍問題のトラブルについて、
籠寅組と東京の浅草で話し合いの場を持ったが、
話し合いはこじれボディーガードの中島武雄は
日本刀で刺殺され、山口登も全身に18ヶ所の傷を受けた。
この傷がもとで(1942年)10月4日、山口登は、
死亡したとされている。
山口組は三代目を作らず、舎弟会が運営することになった。


山口組三代目襲名へ


(1943年)7月13日、田岡一雄は恩赦で2年減刑され、
高知刑務所を出所した。
(1945年)終戦後、田岡は神戸で吉川勇次と再会した。
田岡組を結成し、戦後の混乱で弱体化していた
警察力に代わり田岡は、街や闇市の警備のために、
神戸市新開地に「自警団」を結成し、
闇市への不良在日外国人の干渉を排除した。

(1946年)、山口組舎弟会が田岡一雄を三代目に推挙。
これにより、田岡一雄は山口組三代目に内定した。
同年10月、田岡一雄の山口組三代目襲名式が、
須磨の割烹「延命軒」で行われた。
参加者は33人だった。

三代目山口組の初代若頭には、山田久一が就任した。
岡精義は田岡一雄の若衆(後に舎弟)となった。
田岡一雄からの最初の盃を、吉川勇次が受けた。
このとき、組員は、先代の舎弟6人、
先代の若衆14人、田岡一雄の直系若衆13人の
総勢33人だった。
田岡は三代目襲名に当たって組員に正業を持たせること。
信賞必罰による体制を確立すること。田岡自身が
幡随院長兵衛を手本とし、幡随院長兵衛を目指すこと、
3つの誓いを立てた。


港湾荷役と神戸芸能社

(1947年)、民間貿易の再開が許可されたのを期に、
岡精義の提案を受け、港湾事業に積極的に参入する。
戦前からある浪曲興行からその他の演芸興行全般にも
手を広げ、芸能プロダクション神戸芸能社は、
美空ひばり田端義夫などトップ・スターの
興行を手がけた。

港湾荷役と神戸芸能社は組の二大収入源となり、
山口組のその後の全国的な活動を支えた。
(1953年)、山本健一らによる鶴田浩二襲撃事件で
鶴田襲撃を命じた張本人とされて全国指名手配を受け、
天王寺署に出頭し逮捕される。
その後、処分保留で釈放され不起訴処分となる。
この事件後、山口組の機嫌を損ねると、
とんでもない事が起こると恐れられ、
興行界での影響力も増していった。

これらと同じく当時はプロ野球の試合も、
地回りの興行組織に挨拶を欠く事はできなかった。
しかし野球ファンであった田岡は、
野球は国民的娯楽だからと山口組の全国進出以後は
そのような慣習なしで開催できるよう
取り計らいをしたという。

(1954年)谷崎組との間に抗争事件が勃発した。
(1955年)安原武夫に安原運輸を設立させる。
三代目山口組初の大規模抗争、小松島抗争が勃発。
(1960年)明友会事件が勃発。
(1962年)夜桜銀次事件が勃発。
横浜でブルースカイ事件が勃発。
田岡は、広島の打越会・打越信夫会長を舎弟とした。
これにより、第二次広島抗争に介入していく。
同年、後に山口組四代目に就く竹中正久を
ボディガード役に据えた。
(1963年)紫川事件が勃発。


第一次頂上作戦

警視庁の号令で、(1964年)2月から (1969年)4月まで
暴力団壊滅作戦が行われた。
(1964年)、第1次松山抗争が勃発。
(1964年)、山口組を壊滅する為の「第一次頂上作戦」に
資金源の要であった神戸港の港湾事業に司直のメスが入り、
港湾業務から撤退した。

晩年

(1965年)5月田岡は東京で倒れ、セントラル病院に入院した。
(1966年)自らが経営する甲陽運輸の脱税容疑で
神戸地検に起訴される。
(1968年)吉本興業林正之助が、
「レコード会社乗っ取り容疑」で兵庫県警に逮捕される。
田岡もこれに連座すると見られたが、結局入院中の
田岡に類は及ばなかった。

(1969年)恐喝と威力業務妨害神戸地検が起訴。
(1975年)大阪戦争の発端になるジュテーム事件勃発。
(1976年)廃業状態の神戸芸能社の健康保険を使い、
その保険で不正医療給付を受けたとして、田岡が入院する
関西労災病院や自宅が捜索を受けた。
(1977年)三国事件が勃発、菅谷政雄を絶縁した。
(1978年)京都のクラブ「ベラミ」で、傘下の
佐々木組と対立していた二代目松田組系大日本正義団の
鳴海清に撃たれ負傷。

(1980年)姫路事件。
(1981年)神戸地検は、第1次頂上作戦での
さんちかタウン建設をめぐる恐喝で、
田岡一雄に懲役4年を求刑した。
同年、急性心不全により68歳で死去、


ゴンゾウ部屋とは

港神戸の荷揚げ人足の寄せ場である
当時60箇所ほどあり山口組は二階50畳の部屋に
50人ほどが寝泊りしていた
裏口から自由に出入り出来るようになっていて
大部屋の片隅には夜具がうず高く積まれていて
寝たいときは勝手にその夜具を敷いて
寝ればいいのである
食事は階下の食堂で食うことになっている
朝は冷や飯、夜はホカホカ飯だった
ここにいる限り寝食に困る事はない
人足たちはいずれも酒と女バクチと喧嘩に
うつつを抜かす流れ者たちばかりである
額に刃傷のある男もいれば、
背中に刺青を背負っている男もいる

夜桜銀次事件(博多事件・福岡事件)

(1962年)1月16日
三代目山口組系石井組々長・石井一郎の舎弟で
通称夜桜銀次こと平尾国人が、
福岡市のアパートで射殺された。
山口組では当初、地元福岡市の住吉一家系宮本組の
犯行と誤認し、250人の組員を大量動員し
福岡市に派遣した博多事件、
福岡事件とも呼ばれる事件。


事件後

不明だった平尾国人の殺害は実行犯として、
小川靖敏と平元新治が逮捕された。
その後の供述で、鳥巣組々長・鳥巣信三と弟の良三を
殺人教唆で逮捕した。
鳥巣兄弟の供述から、平尾国人の殺害は
炭鉱経営者の松岡福利に依頼されたものと判明。
松岡は鳥巣兄弟に50万円で平尾の殺害を依頼し、
鳥巣兄弟は5万円で小川と平元に殺害を依頼していた。
後日、 田岡一雄はこの事件で
3000万円が飛んだと語っている。
もともと殺害相手を誤認したうえでの大量動員だったが、
山口組では一組員のためにも、
総力を挙げて取り掛かるというイメージを
世間に植えつけた。

しかし実際には相手組織や地域性を考慮するが、
必要とあれば山口組では全力で相手を
叩きのめす姿勢を世間に知らしめた事に違いはない。
たとえ末端の者であっても手を出した以上は、
山口組全体を相手にしなければならないと
覚悟せよという強いメッセージを
他団体に発した事になった。



「ベラミ事件の真相 」




次回、山口組抗争史

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人の為(ため)と書いて
いつわり(偽)と読むんだねぇ

誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば、言い訳になるから……