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流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


みのる

昨日という日は歴史、
今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー

童謡「あめふり」

誰もが一度は耳にしたことがあるだろう童謡の1つに、
「あめふり」ってのがある。
僕は子供時代、その歌が嫌いで嫌いでたまらなかった。

小学校にあがる少し前、母は僕の入学式に
出席することができないままこの世を去った。
車での買い物の帰り道、大型ダンプと正面衝突をして、
ダンプの運転手ともども即死だった。
覚えているのは人の大きさをした大きな布の膨らみと、
それにすがりつきながら「痛かったろう、痛かったろう」と
大声で泣き喚く父の後ろ姿だけ。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン

ちょうど事故で母が死んだ日も、
路面が滑りやすい雨の日だった。
この歌が雨の日の給食時間に放送で流れると
保育園に迎えに来てくれた優しい母の顔を思い出し、
僕は耳をふさいだ。

その日もそんな雨の日で、ごたぶんに漏れず
給食時間の放送からはあの歌が流れていたと思う。
朝の天気予報では晴れマークが出ていたので、
傘を持ってくるのを忘れた僕は、下校のときのことを
想像するたび憂鬱な気分になっていた。

母の件のせいにするつもりは毛頭ないけれど、
その頃の僕はおせじにも可愛い子供ではなかった。
当然友達なんかいないから傘に入れてくる
人なんかいるはずないし、父は仕事で今日も遅いから、
まさか僕の傘のために仕事を抜け出して
迎えに来てくれるはずもない。
むしろ当時の僕は本当に可愛くなくって、
「もし父がそんな風に迎えに来てくれたとしたら、
一体どんな顔をしたらいいんだろう」なんていう風に、
子供らしくないネガティブな悩みかたをしていたのを
覚えている。

でもそんな悩みなんかもとから不必要で、
結局父が迎えに来てくれることはなかった。
当然だ。片親で子供一人を学校に通わせるのは
今思えば楽なことではない。
大工であった父はその日も屋根の上で雨に濡れながら
家族のために必死に働いていたんだろう。
どんどん強まっていく雨足と、ぽつりぽつりと
クラスメイトが減っていった薄暗い教室は、
今思い出しても寂しい気分になる。

一度寂しいと思うと、その寂しさはどんどん
膨らんでいくもので、そんな時に母の顔を
思い出してしまった僕はもうどうしようもなかった。

もしお母さんがいてくれて、傘をさして迎えにきてくれたら、
この雨もどんなに楽しいだろう。
そう考えたとたん、涙がぽろぽろこぼれてきて、
僕はまだクラスメイトもちらほら残っている
放課後の教室で泣き出してしまった。
それに気づいたクラスメイト達も何事だと
こっちをうかがいはするが、もちろん
なぐさめてはくれない。
やりきれなさと寂しさで胸がいっぱいに
なっていたところへ、担任の先生が
声をかけてくれた。

当時僕の担任の先生というのは結構な
お年の女性の方で、杉本先生といった。
ぽっちゃりした体型と人懐っこい笑顔に
派手めな眼鏡で、生徒からはおばあちゃん先生なんて
呼ばれていたけど、本人はむしろその呼び方に
愛着を感じているらしく、
微笑みながら応対していたように思う。

どしゃ降りの雨がふる教室のなかで、
小学校2年生の子供が泣きじゃくりながら
事情を説明する言葉なんて、
一体どれだけ聞き取れただろうか。
先生は膝をおって同じ高さまで顔をもってくると、
僕の背中を優しくさすりながら「そうね、そうね」と
独特の九州なまりであいづちを打ってくれていた。

僕がやっと泣き止むと、杉本先生は僕に
「そんなら先生と一緒に帰ろうか」というと、
やっぱり派手めな赤いチェックのはいった
小さな傘を差し出した。
途中杉本先生の家にあがらせてもらい、
色んな話をした。
「今度から雨の日は先生と一緒に帰ろう」と
言ってくれたのが、僕は嬉しくてたまらなかった。

なんだかんだで恥ずかしさも伴い、
一緒に下校したのはそれっきりだったけど、
僕はそれからは雨がそれほど嫌ではなくなっていた。

杉本先生、お元気にしてらっしゃいますか?
僕は今年、夢だった教師になることが出来ました。
先生のことを思い出したのも何かの縁かも知れません、
実家に帰省した折にはご挨拶に
伺わせて頂きたいと思っています。



【かっこいい女性店員さん】
男が 順番無視して強引に 注文したら・・



ケイタ君という友達

私の弟が28歳で死にました。
脳疾患持ちで、合併症で15歳まで生きられない
20歳まで生きられないと、お医者さんに
言われ続けて、よくぞ28まで生きたものです。

5年生のとき、無理を言って
普通学級に編入させていただいたとき
弟にケイタ君という友達ができました。
家庭に事情のあるケイタ君は、
5年生ですでにゲームセンターで
たばこを吸ってるような早熟な不良でしたが、
なぜか弟の面倒をとてもよく見てくれました。
子供は残酷ですから、
クラスの中に呼吸器を引きずった
クラッチ付きの子に決して寛容ではありません。

弟は男の子からも女の子からも
陰湿なことをされました。
だけどそれはケイタ君がそばにいないときだけでした。
好奇の目で見られていた弟に、
恐怖の目で見られていたケイタ君は
誰よりも(担任の先生よりも)優しく、
いつもそばにいてくれました。

「ケイタがね、『いじめられたらすぐに俺に言え、
お前は俺の舎弟だからな』だって。
でも舎弟ってなんだろうね、子分のことかな?」
弟はいつも家に帰ると母と私にそう言ってました。
修学旅行に行く途中で弟がそそうをしてしまったとき、
一斉にはやしたてた同級生を尻目に
ケイタ君は下の世話さえしてくれたのです。

6年生の男の子がです。
卒業した弟が養護学校に入ると、
ケイタ君は一層気合の入った不良になってましたが、
それでもバザーに来てくれて、
フォークダンスへの参加さえもしてくれました。
何をやったのか16歳のときケイタ君は
警察に連れて行かれ噂では少年院を出て
そのまま東京に行ってしまったと聞きましたが、
ケイタ君とはそれっきりでした。

弟が死んだとき、私も両親も、
悲しみより「やっと楽になれたね、
よく28まで生きたね。」と落ち着いた気持ちで
その事実を受け入れましたが、
弟の身の回りを整理していて、
養護学校時代の写真の中に弟の隣に寄り添い、
腕を組みカメラにガンを飛ばす金髪の少年を
見つけたとき、涙が出てきてしまいました。

ケイタ君、今どこにいるのですか?
幸せにしていますか?…・・・・・


困っていた妊婦を助けた学校一の不良



チビデブの物理の教師の想い出

俺の高校に生徒に馬鹿にされてた
チビデブの物理の教師がいた。
その教師は、毎朝校門に一人立って
「おはよう」と声を掛けていた。

他の教師も「よくやるよ、点数稼ぎ」と、
あからさまにその教師を批判してた。
雨の日も風の日も、ずっと。
1年くらいしたら、普通にみんな
挨拶するようになった。

卒業式の日、校長挨拶のあと、
その教師が壇上に上がってきて
「みんな、卒業おめでとう。
僕は本当にダメな教師で、
今までみんなから どう見られていたか
知っています。

でも、こんな僕にもみんなに
伝えることができた言葉があります。
【おはよう】この言葉は、社会に出ても
胸を張って言える様にして下さい。
毎日を一生懸命に生きている人の
【おはよう】は、さわやかで
他人の心を和やかにします。

いろいろな苦難や障害にぶち当たっても、
顔をあげて、笑顔で
【おはよう】と言ってください。
僕が教えた物理の授業は忘れてもいいですから
【おはよう】だけは忘れない
大人になって下さい」

俺はちょっと泣いた。
今、物理の先生の授業は忘れたが
毎日の挨拶は忘れていない。



人の為(ため)と書いて
いつわり(偽)と読むんだねぇ

誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば愚痴になるから……



時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる







P R

カビの生えない・きれいなお風呂

お風呂物語

furo