流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

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幸せがつづいても、不幸になるとは言えない
 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


昨日という日は歴史、
今日という日はプレゼント
明日という日はミステリー


俺とトムの12年 /庭の桜が花を咲かせる頃

小学校の頃、クラスの友人が手から血を流していたので
ティッシュを渡してあげた。
どうしたんだ?と聞いた所、 ムカつく猫がいたので
捕まえて水の入ったポリバケツに放り込んだ際に
引っかかれた。との事。
彼は捕まえたその状況をさも誇らしげに武勇伝の如く
クラスの仲間に話し、仲間数人で猫がどうなったかを
今から見に行こう。って事になった。
現場に着くと、前日迄の雨で半分ほど水の入った
業務用のポリバケツの中で、体の半分以上が水に浸かり、
小刻みに震える弱々しい子猫が今にも死にそうにしてた。

友人がバケツを足で蹴り倒し取り出した猫に
「こいつ爆竹の刑にしない?」 と笑いながら皆に言った瞬間、
普段温厚な自分の中で何かがはじけ、
気がつくと俺は落ちているポリバケツを拾い、
思いっきりそいつの頭に投げつけてました。
更に、そばの用水路にそいつを蹴り落とす
暴挙までやってしまった。

あっけにとられる他の友人達と、腰まで用水路に浸かり
半泣きのそいつに「お前、そこから上がったら
爆竹の刑だから」と言い放つと、
弱って震える子猫を体操服でくるみ、
自宅に連れ帰りました。

翌日、そいつが用水路に落ちた際に足を怪我してた事が判り、
担任や親からしこたま絞り上げられ、
そいつの3歳上の兄貴からも帰り道で待ち伏せに合い殴られた。
クラスでは浮いてしまうし、猫一匹の為に
さんざんな目にあってしまった。

あれから12年。
トムという名前を付けたその家族(猫)は、
俺の布団の上でまるくなって息を引き取った。
猫で12年生きれば大往生だったと思う。
俺は固く冷たくなったトムに「おつかれさま」と
タオルをかけてやって、トムがいつも登っていた
庭の桜の樹のそばに、丁重に埋めてあげました。
最初は人間不信で警戒しまくりだったトム。
最後は人間が大好きになってたトム。
そしてトムが大好きだった俺。
毎年春が近づくと近所の桜よりも一足早く、
トムの桜が花を咲かせます。
幼き自分が勇気を出して行った行動を毎年思い出します。



ネコの監視
(鬱で自殺を決意した時)





母ちゃんのボロ小屋
俺の母ちゃんは58歳で死んだ。
母ちゃんは女手一つで俺と姉ちゃんを育ててくれた。
親父は俺が1~2歳の頃に他に女作って出てったらしい。
俺は今、三十路手前だけど親父の顔は知らない。
葬式の時に姉ちゃんにすごい事言われた。

姉「あんたは知らないだろうけど、私が子供の頃に
母ちゃんに殺される所だったんだよ」
俺「(゚Д゚)ハァ?」
姉「あんた残して母ちゃんがドライブ行こうって言うから
車に乗ったら川まで乗せられて、そのまま川に突っ込んだんだよ。」
俺「Σ(;´△`)エッ!?」
姉「心中しようとしたんだってさ、
私は車の窓開けてないと酔うから窓開けてて助かったけど、
母ちゃんは近くに居た人に助けられたんだよ」
どうやら俺を残したのは親父が俺を引き取る事を
考えて残したらしい。
逆に姉は残って引き取られても愛人とうまくやってけないだろうから
(姉とは7歳差)いっそのこと一緒に死のうと思ったらしい。
これ聞いて当時の状況が怖かった。

そんな貧乏生活の中で、俺と姉ちゃんを育ててくれた母に、
俺は恩返しどころか恩を仇で返す事しかしてなかった気がする。
姉ちゃんが知り合いからお年玉貰えば
全部母ちゃんに渡してたのに、
俺は手提げ金庫に入れて隠してたからな。
姉ちゃんが金庫取ろうとしても金庫抱えて泣いて拒否したし・・・。
周りから見たらガキのくせに金に執着する
卑しいガキに見えた事だろう・・・。
親父は居なくても親父の借金取りが家に来るようになったのは
姉ちゃんが中学生、俺が小学生の頃。
姉ちゃんが10年近く小遣い貯めて買ったコンポがあったんだけど、
いきなり家に入って来たおっさんが赤い紙張ってたのを
今でも覚えてる。

その時俺は母ちゃんに「なんであいつと離婚しないんだよ?」と
子供ながらに聞いた気がする。
今なら解るけど、母ちゃんは離婚しても帰る家が無かったんだ。
母ちゃんの実家はあるけど、そこも裕福な家庭じゃなかったし、
俺と姉ちゃんと母ちゃんの3人が転がり込める余裕も無かった。
姉ちゃんは高校卒業してすぐ寮のある会社に就職して生活してた。
俺は中学卒業して母ちゃんが高校行けって言うのを無視して
遊ぶ金欲しさに仕事探しに都会へ出た。
さすがに中卒じゃまともな仕事は無かったけど、
それでも1人暮らしして遊ぶくらいの金は稼げてた。

彼女もできて俺が25歳の頃に母ちゃんが
実家に戻って欲しいみたいな事を言ってきた。
親父が死んで遺産相続で借金ができてた。
遺産放棄すればいいのにと言ったけど、
結局帰れる家が無いし遺産放棄して離婚しても、
保証人が居ないから住む家を借りれないとかで
相続する事になったらしい。
俺は正直、借金抱えてまで住みたいとは思わない家なんだが、
行くところの無い母ちゃんには、大事な住処だったんだろう。

築4~50年くらいのバラック小屋・・・窓も木枠で隙間風だらけ・・・。
彼女と結婚も考えてた俺だけど、
母ちゃん1人に借金負わせる訳にもいかないので、
彼女に事情を話して結婚も申し込んでみた。
答えは結局NOだった。
借金背負う人とは一緒になれないって言われた。
普通そうだよな、と心の中で泣きつつ実家に戻った。

俺は実家に戻って母ちゃんと2人暮らしでとりあえず仕事に就いた。
母ちゃんは何が楽しいんだか毎日にこにこして働いてた。
ある日母ちゃんが「はやくあんたの子供が見たいわ」とか言いやがった。
俺はブチ切れてしまった。
「こんなボロ小屋に住んでて借金あって手取り15万しかない俺に
嫁が来ると思ってんのか?
誰の所為で彼女と別れてこんな田舎でボロ小屋に住んで
ろくな仕事も無い場所に戻ってくる事になったんだよ!」
つい本音が出てしまった。
母ちゃんは「ごめんね・・・でも彼女居るなら言ってくれれば
無理に帰ってこなくても良かったんだよ・・・」って
俺はブチ切れたまま「結婚も申し込んださ!だけどな、
借金抱えることが決まってて田舎でボロ小屋に
住むっつったら断られたよ!!」

母ちゃんは何も言わないで泣いてた・・・。
すごい気まずかったけど俺ももう何も言えなかった・・・。
それ以来気まずくて、あんまり会話も無かった・・・
母ちゃんに俺の怒りだけぶつけて、
感謝の言葉も親孝行もできなかった。
だからここで言わせて欲しい。 母ちゃんごめんね、
母ちゃんの苦労も知らずに俺の怒りだけぶつけて
本当にごめんね。
孫を見せてあげられなくてごめんね、
親父の借金はあと1年くらいで全部返せそうです。
母ちゃん、俺を産んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。



お母さん、もう一度、会いたいよ




ペルーの玉葱
ペルーの首都、リマの北北西約80kmにある、ワラル。
そこにペルー政府は85年、野菜生産技術センターを建てた。
首都リマの人口増加が著しく、野菜の需要が増加、
首都に比較的近いワラルに、供給地帯として
白羽の矢が立てられたのだった。
それは、『国家果樹野菜振興計画』の一環でもあった。
ところが、当時、野菜の生産は出来不出来の差が激しく、
安定供給できる状態ではなかった。
なんとかしようと、農業でも確固とした技術を持つ日本に、
技術協力が要請されたのだった。
それをうけて日本は、86年4月から農業技術専門家を派遣した。
実施計画の打ち合わせ、技術指導が重ねられ、
センターの役割はペルー内で次第に重要性を増していった。 
長期派遣される専門家の任期を、継続したり入れ替えたりしながら
プロジェクトは続き、

91年は宮川清忠、中西 浩、金良清文の3氏が赴任していた。
3氏は、様々な案件のうち、野菜の中でもとくに需要の多い
玉葱の種の生産化を試み始めた。 
なにしろ玉葱はペルー料理の基本中の基本の食材。
これなくして食事は作れない大切な野菜なのだが、
市場に並ぶものはどれも大きさはばらばらで、
味も統一されていない。
これでは農民も苦労が多かろう。
まずしっかりした、誰が作っても失敗のない種を作ろう、と
3氏は考えたのだった。
3氏は遠い異国の生活をいとわず、現地スタッフとの
チームワークをとりながら、
献身的に仕事を続ける毎日だった。

そうしたある日。 突然の銃声が静寂を打ち壊した。
テロリストがセンターを襲撃、
3人は無抵抗のまま射殺されたのだ。 91年7月のことだった。
野菜センターは悲しみに包まれた。というよりも、
日本、ペルーの両国が重い空気に包まれた。
日本は治安の悪化を理由にJICAの専門家を帰国させ、
プロジェクトは現地人スタッフに引き継がれることになってしまった。
ペルー人はへこたれなかった。
野菜生産技術センターの現地スタッフは、
3人の意思を受け継ぎ、やがて目標だった種の
固定化に成功したのである。
この功績は日本の貢献によるものだと、彼らは信じている。

スタッフの一人は、「日本人が教えてくれたことを
思い出しながら頑張った。
3人が導いてくれたんだ」と、語った。
今、現地ではワラルで作られた種をまけば、
同じ玉葱が採れると、高い評価を得ている。
そして、亡くなった3人の机の上には、
現地スタッフの手によって今も花が飾られ、
その意思と功績を称えている。
支援が続いている間にははっきり見えてこなかった、
技術協力の成果。 それは皮肉なことに、
悲しい結末によって、かえって浮き彫りになったのだった。
海の潮が引いた後に、砂の上に貝殻が残ったように……。



お嫁に行くとき 【父のお弁当】



誰にだってあるんだよ、人には言えない苦しみが。
誰にだってあるんだよ、人には言えない悲しみが。
ただ、黙っているだけなんだよ、
言えば愚痴になるから。

人の為(ため)と書いて
いつわり(偽)と読むんだねぇ


時は絶えず流れ、
 今、微笑む花も、明日には枯れる








P R



きれいなお風呂・宣言 

お風呂物語