流れ雲

繰り返しと積み重ねの、過ぎ去る日々に、小さな希望と少しの刺激で、今を楽しくこれからも楽しく (^o^)

メジャーでは無いけど、
こんな小説あっても、良いかな !!

信じれば真実、疑えば妄想……

アングラ小説です、不快感がある方は、
読むのを中断して下さい.

知られざる命 
Author: 壇次郎


北海道を舞台に、歴史に翻弄された
小さな命がありました。
太平洋戦争から近代に至る出来事に
感動される物語です。
誰もどうすることの出来ない悲しい事実が
ありました。
命の大切さを考えさせられます……  


【戻らない故郷】

集団疎開から戻ってきた子供たちと共に、
泰蔵と真里子も再び函館の学校に通い始めました。
昭和二十二年、真里子は六年生になっていました。
ある日、一人の少女が真里子のクラスに転校して来ました。
少女の名は君江と言い、国後島からの引揚者の一人でした。
君江は真里子の隣の席に座りました。
まだ教科書の無い君江に、真里子は机をくっつけ、
あちこちを黒く墨で塗りつぶされた一つの教科書を、
互いに仲良く覗き込みながら勉強を始めました。
君江は言葉少なく、常に何かに脅えているかの様な
素振りに見えました。
真里子は、そんな君江をいたわるかの様に、
いつも優しく声を掛け続けていました。
小さな心に大きな傷を負っていた君江にとって、
そんな真里子の存在こそが、
生きる勇気を与えてくれたのでした。

戦後間もない函館は、北方四島からの
引揚者が到着する港でもありました。
北海道の海岸からでも良く見える国後島を筆頭に、
択捉島歯舞諸島色丹島の四島には、終戦前の当時、
約一万七千人の日本人が住んでいました。
島は、日本のどこにでもある様な街で、
商店や学校もあり、寺や神社もありました。
人々は、主に漁業で生計を立てていました。
特に昆布漁は盛んで、毎年、良質の昆布が
多く収穫されていました。
君江は、そんな北方四島の一つ、
国後島で生まれ育ちました。
家は旅館で、日用雑貨も取り扱う、
比較的裕福な家庭でした。
終戦直前の昭和二十年八月八日、旧ソ連は、
日ソ中立条約」を一方的に破り、
日本に対し宣戦布告をしました。
その直後、八月十一日に国境を侵犯したソ連軍は、
八月二十五日に南樺太を占領、そして、
八月二十八日から九月一日にかけ国後島
択捉島色丹島を占領しました。
更に、九月三日から五日にかけ歯舞諸島を占領し、
旧ソ連(現ロシア)の支配が始まりました。
ソ連軍の占領直後、日本人の帰還は
認められていませんでしたが、
住民はソ連軍兵士の横暴ぶりや将来の恐怖の余り、
次々に自らの船で島を脱出して行きました。
真夜中になると、住民はソ連軍兵士に見つからない様に、
着の身着のままで小さな船に乗り込み、
空襲で街全体が焼け野原と化した
北海道の根室を目指しました。
皆、たんすや布団など、家財道具はそのままにして、
島を脱出しました。
もう、先祖が眠る墓ともお別れです。
何十年もかけて築いてきた財産は、
その一瞬で諦めざるを得ませんでした。
島を脱出出来た人、全てが無事に
根室にたどり着けた訳ではありません。
島を見渡せることが出来る当時の根室海岸には、
シケでたどり着けなかった多くの人々の遺体が
冷たい波によって打ち寄せられていました。
昭和二十年九月二日、ちょうどお昼を過ぎた頃でした。
君江の暮らす地区に、多くのソ連軍兵士が上陸して来ました。
その噂を聞き、君江の母は、
当時十歳の君江と十六歳の君江の姉を連れ、
急いで防空壕へと身を潜めました。
君江「お母さん、私たち、どうなるの?」
母「大丈夫だよ。少しの間だけ、ここに隠れていれば、
じきにソ連兵は行ってしまうから・・・」
君江の母の身体は硬直していました。
十六歳の姉は、ブルブルと震えていました。
人々は、上陸して来たソ連兵に何をされるか、
不安に慄いていました。
片っ端から金目のものを略奪されるか、
手当たり次第、若い女を襲って来るのか、
島民の恐怖は頂点に達していました。
上陸して来たソ連兵は、島中を隅々に渡って
アメリカ兵がいないかどうかを確認して歩きました。
また、日本兵が隠れていないかも見て歩きました。
君江の家にもその日の内に、数人のソ連兵がやって来ました。
家には君江の父親が一人残っていました。
黒光りした充を肩にぶら下げたソ連兵は、家の入口を入るなり、
いきなり土足で部屋中を歩き回りました。ソ連兵は、なんやら
「アメリカ? アメリカ?」と、聞いています。
君江の父親が首を横に振ると、ソ連兵は、
店に置いてあった缶詰を手に取り、
スタスタと出て行ってしまいました。
夜になると、父親は食料を持って、そっと
君江たちが潜んでいる防空壕にやって来ました。
そんな恐怖の日が、数日続きましたが、
ソ連兵が別段、島民には危害を加える心配が無い事を
確認すると、あちこちの防空壕に隠れ潜んでいた女子供は、
恐る恐る外に出て来る様になりました。
 
島に上陸したソ連軍は、島と日本本土との連絡を絶ち、
島民の船を没収しました。
これで島民は、ソ連兵の目を盗み、
島を脱出することなど、とうてい不可能と
なってしまいました。
また、自給自足の島民にとっては船も無く、
漁が出来ません。
板切れを集めていかだを作り、浜近くの海老などを採ったりして
不便な生活が始まりました。
島には次第にソ連の民間人も移り住む様になり、
学校にもソ連人の子供たちが通う様になってきました。
日本人とソ連人は、教室を区切り、別々に授業を始めました。
また、子供同士や家族同士のお付き合い等、
あちこちで島民とソ連人との交流が始まりました。
島では、友好的に仲良くなる者もいた反面、
略奪行為も各地で繰り返されており、島民にとって、
決して気の休まる日はありませんでした。
君江の家では、日用雑貨を取り扱っていた関係上、
わずかながらの物資は残っていました。
ソ連軍は、そんな物資を提供する様に命じました。
ソ連兵はもとより、移り住んで来たソ連の民間人も
よく君江の家に来ては、
残っていた食料雑貨を持ち去って行きました。
ソ連人の中には、丁寧にソ連のお金を置いて行く人もいました。
ソ連人全てが悪い人間ではありませんでした。
君江も君江の母も、にわかに覚えたロシア語で、
身振り手振りを利用しながら、家を訪れる
異国の人々と交流を始めました。
そんな中、君江たちは、あるソ連人一家と
仲良くなることが出来ました。
君江は、同じ学校に通う同じ歳の
ナターシャと言う少女と友達になれました。
ナターシャが彼女の母親と共に、
君江の店を訪れたのをきっかけに、
よく、一緒に遊ぶ様になって行きました。
君江は、ナターシャにお手玉を教えたりしていました。
ナターシャは、初めて見るお手玉が、
とても気に入っていました。
一方、君江の母は、ナターシャの母親に
料理を教えたりもしていました。
昆布や芋の煮物など、生まれて初めて味わう
日本料理が大変気に入っていた様子でした。
君江には「チコ」と言う愛犬がいました。
メスの五歳になる犬でした。
なぜかチコは、ナターシャにも良くなつく様になりました。
二人は、よく、浜辺に昆布を拾いに出かけたり、
山に山菜取りに出かけたりしていました。
チコはいつもそんな二人の後を付いて歩いていました。
ナターシャ 「キミちゃんと、
ずっと一緒にいられるのかなぁ?」
君江 「わからない・・・。父さん言ってた。
もうすぐ北海道に行くことになるって・・・。
私たち日本人は、この島から追い出されるって・・・」
ナターシャ 「また、会えるよね・・・」
君江 「・・・・・」
ナターシャ 「チコも行くの?」
君江 「チコは連れて行かれないって・・・。
ナターシャ、チコを貰ってね、かわいがってね・・・」
ナターシャ 「うん、大丈夫」

昭和二十一年十二月、GHQとソ連との間で
日本人全員の引き上げが合意されると、
島民の強制移動が始まりました。そして、
君江たち一家にも島から引き上げる日がやって来ました。
その日は、ナターシャと彼女の母親が
別れの挨拶に来てくれました。
君江はチコをナターシャに手渡すと、
一家は桟橋へと急ぎました。
桟橋には小さな船が、沖合に停泊している貨物船との間を、
島民を載せて何度も往復している姿がありました。
君江一家が船に乗り込み、桟橋を離れた時です。
突如、一匹の白い犬がその桟橋に駆け寄って来ました。
犬は桟橋の端から端を行ったり来たり、走り回っています。
なんと、その白い犬はチコでした。
君江たちを追ってやって来たのでした。
チコは一生懸命になって君江たちを探しています。
桟橋には、かすかに君江たちの臭いが
まだ残っているのでしょう。
君江たち一家を乗せた小さな船は、
ゆっくりと桟橋から離れて行きます。
チコは船と共に離れて行く君江には気付きもせずに、
かすかに残る君江の臭いだけを頼りに、
必死になってかつての飼い主を探し回っています。
チコは、今まで自分をかわいがってくれた飼い主を
精一杯になって探し続けています。
船上の君江は、そんなチコの姿に気付き、
大声で叫びました。「チコ・・・、チコ・・・」
しかし、君江の叫び声は、チコに届く事無く、
冷たい海の波しぶきにかき消されていきました。
「チコ・・・、チコ・・・、元気でね・・・」
そこには、白い小さな身体が桟橋を行ったり来たりしている姿が、
いつまでも、いつまでも遠く離れて行く船の上から見えていました。
沖に停泊していた貨物船に、島の人々は押し込まれました。
そして、トイレも無い劣悪な船は、
樺太の真岡と言う場所に向かいました。
真岡の収容所では、飢えと寒さに耐え切れなかった
多くの日本人が、命を落として逝きました。
しばらくの間、収容所で過ごした人々は、
迎えに来た日本の引き上げ船に乗り込み、
函館へと向かいました。
そして、函館に着いた人々は、真っ先に
DDTを頭から掛けられた後、
数日に及ぶ手続きを終え、各々の親類を頼って
再び道内各地へと散らばって行きました。
この様にして、1949年七月までに、
島に残っていたほぼ全員の島民が日本に帰国しました。
その時以来、元島民は、未だ生まれ育った
故郷に帰ることが出来ず、
望郷の念のみが静かに時を刻んでいます。
君江には、桟橋で自分を探し続けていた
チコの姿がいつまでも目に焼き付いていました。
君江にとって、その姿がチコを見た
最後の姿になってしまいました。
その後、チコがどうなったのかも、
ナターシャがどんな暮らしをしていたのかも、
当然、君江には知る術もありませんでした。
 
冷戦が終結し、北海道の各港では多くのロシア船が
蟹などの海産物を満載して入港します。
街中にはロシア語の案内板も目立ちます。
大韓航空の民間機がサハリン沖でロシアの戦闘機に
撃墜された当時には想像もつかなかった光景です。
君江の生まれ育った国後島では、
日本のテレビ番組を見ることが出来ます。
そこの子供たちは「ドラエモン」も見ているとのことです。
しかし、北方領土海域では、今でも
日本漁船がロシア国境警備隊に銃撃され、
死者が出るといった現実が存在しています。


続く

Author: 夢庵壇次郎
http://www.newvel.jp/library/pso-1967.html


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作詞:西沢爽・作曲:遠藤実


瞼とじても あなたが見える
思い切れない その顔が…
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波を見つめて アア ゆく私




昨日という日は歴史、
 明日という日はミステリー、
  今日という日は贈り物、

時は絶えず流れ、
    今、微笑む花も、明日には枯れる