流れ雲

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 不幸がつづいても、幸せが来るとは限らない


ドイツ人捕虜達と板東捕虜収容所・(松江所長 )
今から90年ほど前に5,000人ものドイツ兵の捕虜が
3年間日本の捕虜収容所に
収監されていたことを知っている人は数少ない。  
第一次世界大戦当時、同盟国であったイギリスの要請で
日本はドイツ領南洋諸島を占領、中国の青島を陥落させた。
この時ドイツ人の捕虜4,627人は日本に移送され
日本の捕虜収容所に収監された。
捕虜たちは日本の13ヵ所の収容所に抑留された。  


これは捕虜収容所の一つ板東捕虜収容所
徳島県)の心温まる話です。  
収容所の所長は44歳の陸軍歩兵中佐で、
名を松江豊寿といった。松江は身長170センチ以上の偉丈夫で
頭髪は薄いが立派なカイゼル髭をたくわえており、
一見厳しい人物に見えた。だが実際は
学者のように物静かな人物で「ドナウ河のさざなみ」の
レコードに耳を傾ける音楽愛好家でもあった。  
日本の多くの捕虜収容所では捕虜たちは
精神的、肉体的に抑圧されていた。
しかし松江所長は板東捕虜収容所では警備兵達に
いかなる暴力も許さず、捕虜たちに対して
人道的に接するよう求めた。  
温和で包容力に富んだ人柄の松江はドイツ人の捕虜たちのことを
「彼らは祖国のために立派に戦ったのだから戦争が終わって
帰還できる日まで大切に扱うべきだ」と語っていた。
捕虜の一人で第二次世界大戦でもソ連で二度目の捕虜生活を送った
ポール・クーリーは述懐している。  
「バンドーにこそは、国境を越えた人間同士の
真の友愛の灯がともっていた。私は確信をもって言えます。
世界のどこにバンドーのようなラーゲル
(収容所)が存在したでしょうか。
世界のどこにマツエ大佐のような
ラーゲル・コマンダーがいたでしょうか」と・・・  
また他の捕虜は「マツエ大佐は内に秘めた優しさ、
暖かさは彼のもとにいた者でないと分らない。
彼こそはサムライにふさわしい日本人だった。」と回顧している。
ドイツ人捕虜たちは水浴や水泳が好きだった。
そこで松江は収容所から徒歩20分のところの乙瀬川で
水浴させたり瀬戸内海の櫛木海岸への遠足を認め
海水浴を許可さえした。  
これを知った陸軍省は捕虜が逃亡する恐れがあると
松江所長に海水浴禁止命令を出した。  
この時松江所長は「あれは、海辺で足を洗わせていたら
つい泳いでしまっただけであります」と答え陸軍省を納得させた。
また松江所長は捕虜たちを収容所の外にも出して
地元住民との交流も行った。  
地域住民は捕虜たちを「ドイツさん、ドイツさん」と呼んで
家族のように親しく接する風潮が広がった。  
松江所長の人道的な捕虜の扱いを陸軍上層部が批判して
収容所の予算削減を受けることもあった。  
しかし松江所長は軍上層部の糾弾に屈せず
ハーグ条約に則りドイツ兵捕虜の人権を尊重した。  
当時のドイツは科学技術面で
世界の文明をリードする先進国であった。
松江は捕虜たちの中にいた学者や技術者、
専門職人の知識を積極的に摂取して、
その技能を一般市民に学ばせた。
まずドイツ人たちは徳島市の木工所のエンジンを修理して
市民に感謝された。
収容所の中庭には40軒ほどの小屋が店開きした。
いずれもプロの職人の専門店だった。
家具製造、楽器修理、金属加工、靴屋、
写真作業、製本、製パンなどなど・・
ボーリング場、図書館、印刷所まで設けた。  
日本人達も養豚、ケチャップ・ベーコン・ハムの製法
牛乳搾取法、石鹸製造、染色法、皮革の加工法など
積極的に習得した。
とくにクーヘンは関係者が「その後何十年と
日本各地の洋菓子店を漁ってみたが、
あの当時のデリケートな味を見つけることは出来なかった」と言うほど
美味しい製品であった。
いま日本でよく知られている「ローマイヤー」「デリカテッセン
ユーハイム」などのドイツ料理やパン、ケーキ類は、
この時代にドイツ捕虜が日本に伝えたものだ。
音楽好きなドイツ人たちは吹奏楽団や合唱団も結成した。
1918年6月1日ハンゼンという捕虜が指揮した
徳島オーケストラはベートーヴェンの「第九交響曲」を
収容所内で第4楽章まで合唱つきで演奏した。
ソプラノこそいなかったが、
これが第九交響曲の日本での初演であった。  
「ドイツ人捕虜たちは第九を聴くうちに故郷の山河を思い出し、
頬に涙を伝わせていた。
鳴門海峡にほど近い四国の片隅に響き渡った第九交響曲
ドイツ人捕虜達には望郷のシンフォニーであった」
捕虜の一人は言う「この望郷のシンフォニーのプロデューサーこそ
マツエ所長だった」と。
板東捕虜収容所の跡地はその後、
軍用地となり演習用兵舎や射撃場になった。
第二次大戦後は町営住宅になった。
この住宅に朝鮮からの引揚者、高橋俊治・春枝夫妻が住んでいた。
昭和23年のある日、春枝は裏山の鬱蒼たる藪の中に
不思議な石碑を見つけた。調べてみると、
それはドイツ兵達の墓であることが分った。
春枝には朝鮮の日本人墓地にある先祖代々の墓を
放置して帰国した苦い経験があった。  
捕虜となり故郷に帰ることなく異郷の朽ち果てた者達の悔しさは
春枝にとって他人事とは思えなかった。
それから春枝は墓守となって定期的にお墓を清掃して
香華を供え続けた。
この地味な行為が昭和35年10月徳島新聞で報道された。
10数年の間ドイツ兵の墓を守り続けた春枝の話は
ドイツのリュプケ大統領の耳に届いた。
その年の11月29日、駐日西ドイツ大使、
ヴィルヘイム・ハース夫妻と
ヘグナー神戸総領事夫妻がドイツ兵の墓参りに
板東捕虜収容所跡を訪れた。  
墓碑に花輪を供え黙祷したあとでハース大使は通訳を介して頼んだ。
「高橋春枝さんに会いたい」  
はるか後方に慎ましく立っていた羽織姿の春枝が
おずおずと進み出ると、ハース大使は春枝の小さな手を
両手で握りしめて日本語で言った。
「アリガト、アリガト」ハースは10年以上にわたり
春枝が行って来た無償の行為に感動感謝した。
その4年後ドイツから春枝に
ドイツ連邦共和国荒鷲十字勲章が授与された。
板東捕虜収容所の物語が映画化され東映系で
バルトの楽園」の題名で公開された。

参考:『二つの山河』中村彰彦著、文春文庫

バルトの楽園』は、2006年公開の日本映画。
タイトルの「バルト」とはドイツ語で
「ひげ」の意味。
松江やドイツ人捕虜の生やしていた
ひげをイメージしている。


時は絶えず流れ、
  今、微笑む花も、明日には枯れる